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川岸の鳥

 運命というものには温度がない。

 冷酷でもなければ、温厚でもない。

 ただ、その流れに人を乗せて命を運ぶ。

 俺はそれに逆らうことはなかった。

 流されて、抗わず、切り替えず、身を任せる。

 ただ、運ばれていく命を見送って、ただ、流されるように運ばれてきた。

 そうして俺は、傷ひとつなく生きてきた。

 そうして俺は、空のまま生きてきた。


 でも、その運命は何もしてくれなかった。

 確かにそこに在るのに、どこにも流してくれない。ただそこに在るだけ。


 どうすればいい。


 その運命は、新幹線の隣席、窓際でただせせらぐ。

 テーブルに乗せたバッグを枕代わりに抱え込んで眠るその姿は、さながら水泳後の授業中に熟睡する少年のように幼気で、俺の視線は自然と彼に引き寄せられた。

 ふいに彼は気だるげに身を起こすと、今度はバッグを抱っこして背もたれに寄りかかり、人目も憚らずにあどけない寝顔を晒す。

 緩やかな曲線を描くしなやかな髪、白い肌、大きな愛らしい瞳を秘めているであろう瞼。

 この新幹線の中、俺の隣には、彼だけの世界が在った。


 俺は、世界への侵食を試みる。


「あの、コレ、落ちてましたよ」


 俺は、俺のハンカチを彼の世界に押込んだ。

 あたかも、床に落ちていた彼のハンカチを拾って渡すかのように。

 なんでもいい、少しでもいい、声を聞いてみたかった。

 彼は重そうに瞼を半分ほど開けた。


「あ、...ありがとうございます。」


 甘い響きのある微かな声でそういうと、俺のハンカチを両手で握ったまま、また瞼を閉じて彼だけの世界におちていく。

 手のひらに包まれたハンカチの幸せそうなことこの上ない。

 俺もその幸せに触れたい。


 俺は再び、世界への侵食を試みる。


 旅行カバンから俺のリップクリームを床に落とす。

 その音に彼はピクッと反応する。


「バッグから、落ちましたよ。」


 俺は、俺のリップクリームを彼の世界に押し込んだ。


「あ、...すみません。」


 片目だけなんとかこじ開けた彼は俺のリップクリームを受け取った。

 その瞬間、手が触れる。柔らかくしなやかで、怪しいほど温度のない指だった。


 彼は受け取った物をそれが何かも確認せずに、自分のバッグへ閉じ込めた。

 俺のリップクリームは、彼の世界の住人になった。

 俺もその世界に移住したい。


 今度は、彼は自分の世界に帰ることなく、現実をたゆたっていた。


 電光案内板に流れる案内を薄目で眺めている彼の目が少しずつ大きくなる。


 窓から射し込む陽も、照明も、光という光全てを吸い込んでしまう深淵のような、美しい瞳だった。


 案内板を見つめる目はまだ見開かれていく。本来の大きさも越え、さらに開ききったところで、彼は呟いた。


「駅過ぎてる...」


 大きなため息を吐きながら彼は座席に沈むようにしぼんでいった。

 そして、手元のハンカチに視線を落とすと不思議そうに、もにもにと揉みながら不可解な顔をした。


「寝過ごしちゃいました?」

 俺はあたかも親切そうに訪ねる。


「そうみたいです。さっきの駅でした...。」


 全て諦めてまた眠りにつこうとしている。

 俺は咄嗟にその運命を揺さぶり起こした。


「実は、俺もさっきの駅に用事があったんだけど、降り損ねちゃって。次の駅が家なんだけど、もしよかったら一緒に車で向かいませんか」


 俺にとって初めての事だった。


 どんな運命も受け入れてきた。

 どんな運命にも流されてきた。

 運命は絶対だからだ。

 人は川に浮かぶただの流木。

 流れに逆らえば波に飲まれて沈む。

 流れに抗えば削られ腐り朽ちる。

 人間は無力だ。


 だが、目の前の運命は、何もしてくれない。

 どんなに渇望しても俺を引摺り込んではくれない。

 俺は、初めて自分の意思で運命を選択する。


 目の前の運命に足を踏み入れる。

 深いけど、暗さがない。

 冷たいけど、温度がない。

 激しいけど、力がない。

 この不気味な流れに俺はもう吸い込まれてしまいたかった。


「え。そんな、申し訳ないです」


 彼はまだ眠そうな瞳をこちらに傾けて微かな声でそう答えるが、その瞳が余計に俺を吸い寄せた。

 運命の歯車に拍車が掛かり、俺の口車までよく回す。


「隣の席の人と同じ目的地で、しかも一緒に乗り過ごすなんてこんな偶然何かの縁みたいだし。たぶん、年も近いですよね? ちょっとドライブに付き合ってくれるとうれしいんですけど。」


 彼は、困惑しながらも甘んじてくれた。そして、手元のハンカチをぼんやりと見つめた後、俺の旅行カバンに目をやると、ハンカチを俺に差し出した。


「これ、お名前が…」


 ハンカチの刺繍とカバンのタグの名前を照らし合わせた彼は、見知らぬハンカチの謎を解き明かした。


「あ、すみません、俺のだったみたいですね。貰った物で普段使わないから勘違いしちゃった」

 奇妙な言い訳に彼は少しだけ愛想笑いをした。


「珍しい名字なんですね。なんだかすごく賑やかな名字」


「よく言われます。初見でちゃんと呼んでもらったことないんですよ」


「僕も少し珍しい名字で、名字の雰囲気もちょっとだけ似てるかもしれないです」


 そういって名乗る彼の名字は、とても穏やかで、まるで平和そのもののような名字だった。正直、彼には似合わない。

 彼の醸し出す世界は、穏やかで静かだが、平和の対極にある。

 まるで、嵐の前の静けさ、もしくは、荒廃した地上。


 そこへと誘った軽快な羽音が彼の口から漏れる。


「僕たちの名前、どこか飛んでっちゃいそう」


 彼は明るく何気ない調子でそういうが、その言葉はどこか不穏だった。

 遠くから騒々しい羽音が響いてくるような嫌な胸騒ぎを感じる。

 彼は、一切光を反射しない瞳を、こちらに向けながら、言葉を続ける。


「二人の名字が合わさると、なんだかすごい騒々しくなっちゃいますね」



 俺は、溢すように言葉を返した。

「なんか地震の前触れみたい」


 彼は、今度は愛想ではなく、本当に笑った。その笑顔が、世界が、俺を侵食する。

 きっと多くの人を魅了してきたのであろう。

 彼という世界を追求したいなんて恐ろしい思いすら抱く。


 五百雀は小鳥遊の空白に惹かれ、まもなくあのマンションへと導かれる。


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