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男の子達の仄暗いお話です。
性的な描写はありません。
死が関わってきますので苦手な方はご注意ください。
拙い文章ですが、読んでいただけると幸いです。
月は厚い雲に覆われ、やけに湿った風に満たされた初夏の午前一時、招かれた部屋の廊下で僕は立ちすくんでいた。
扉の奥から流れ出てくる異様な冷気と静けさに。磨りガラスの向こうで宙吊りになっている彼に。
宙ぶらりんに揺れる無機質な彼。
「困る」
彼の隣へ歩み寄った時、最初に口から溢れた言葉がそれだった。
無意識だとしても目の前の親友にではなく、自分に向けて言葉を発した事に失望する。
ひどく冷たい。この部屋も。目の前の彼も。僕という人間も。
「困る」
何度も口から溢れる言葉に違和感がある。嫌だ、嘘だ、という否定や拒絶ではないのか。
幼少からともに過ごした彼は、僕にとって唯一の存在だった。
彼がいたから僕がいた。彼という世界の一部が僕だった。彼が存在しないのなら僕は存在できない。
では、僕も後を追うのか。
何かの殻が剥がれ始める。
「困る」 「困る」
彼の顔はまだ見ることが出来ない。
うつ向いて言葉の違和感を辿る。
ふと、宙に浮く彼の足下に水滴の跡が残っている。
彼は涙したのだろうか。彼は悲しんでいたのか。
気付く。
ひどく動揺し、むせかえる。膝をつき、床の水滴に食い入る。
これは僕の涙だ。彼を失った悲しみが僕の目から溢れたものだ。そう願って凝視した水滴は渇きはじめており、今しがたのものではない。
冷や汗で湿った自分の頬に涙の軌跡はない。
彼のいない世界で僕は、悲しみを感じていない。
彼を失ってなぜ悲しみを感じない。彼は、唯一の存在なのに。本当は悲しい。本当はひどく悲しんでいる。親友を亡くしてひどく悲しんでいる。悲しみのあまり感情を喪失している。自我を保つために脳が防衛本能で感情を抑制しているんだ。
自己暗示を続ける。
冷房の唸り声が脳に響き、思考を阻む。
目の前の宙ぶらりんが、風に弄ばれて微かに揺れる。
揺れるそれを眺めて、自己催眠に至る。揺れる彼とそれを続ける。
彼とはもう日々を過ごせない。悲しい。彼はどうして自分に何も話さなかった。悲しい。どうして置いていくのだ。悲しい。これから、誰と過ごせばいいのだ。
誰と過ごせばいいのだ?
殻がひび割れていく。
「困る」
そうか、僕はすでに彼の代わりを探しはじめている。
しかし、彼のような特殊な存在に出会えるかわからずに困っているのだ。
腑に落ちる。腑に落ちて、自分の欠落した空白を自覚する。自分の空白を悲しむ。
その悲しみにも彼はいない。
数時間前の彼からのメッセージを反芻する。
「お誕生日おめでとう。 今年のプレゼントは新しい世界です。誕生日になった瞬間はまだ間に合わないと思うので、日付が変わって一時間くらいしたら部屋に来て」
彼は僕の空白を知っていたのだ。その空白に僕を突き落とすために、こんな馬鹿げたバースデーサプライズを用意した。
彼と向き合い、視線を上に向けていく。
「お誕生日おめでとう。新しい世界です。いい年にしてね」
胸に貼り付けられたバースデーカードにそう書いてある。
彼と向き合うため、視線を上に向けていく。
虚ろな瞳が交差する。
「化け物」
彼の顔にそう吐き捨てる。
セロハンテープで口角を引き上げた笑顔の化け物に涙の跡はない。
虚空。不穏。それが新しい世界の空気。
昨日までの日々が夢にすら思える。
今日、自分は化け物によって産み落とされたのだ。
彼が好きだった珈琲を淹れ、化け物が足掛かりにしたのであろうイスに腰をかけ、彼の意図を探る。
彼という人間、彼との日々、彼の思い。辿り着けない。自分は空白だったのだから。
大切だった彼という人間も、彼との思い出も、彼の言葉も、そのほとんどが爪痕すら残さずに滑り落ちてしまっていた。
そのうちに考えることすら放棄し、冷風にさらされる彼をただぼんやりと眺めていた。
口元に寄せたカップの湯気が視界の彼を煙に巻く。
目の前で揺れる彼は、もう何も答えをくれない。
空白に珈琲を流し込む、化け物を眺めながら。
読んでくださってありがとうございました。