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隊長さんちのわんこ《ミシェル》  作者: 芳賀さこ
第九章 さよならを言う同居人
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その8

 クリスが帰ったあと、ミシェルは震え上がるほどの不安に襲われた。胸に秘めた秘密を知られてしまったこと、その相手がもっともフェリックスに近い人物ということ。

 クリスがどういう態度に出るだろうか、ミシェルは気がかりでならない。

 フェリックスが帰ってくると、真っ赤な目のミシェルが出迎えた。驚いて理由を尋ねようとしたら、慌ててかぶりを振る。


「トマト鍋に使う玉ねぎを切っていたんです。なかなか涙が止まらなくて」


 フェリックスは嘘だと見抜いていた。なぜなら、ミシェルが嘘をつく時は持っている物を握り締める。今はキルト生地の鍋つかみを胸にぎゅっと抱いていた。

 お前の言い訳はいつもそれだな。 

 口にすればきっと困るだろう。それでも訊かずにはいられなかった。


「何かあったのか?」


 ミシェルは「何もない」と作り笑顔をする。身を翻してキッチンへ行ってしまったので、フェリックスは聞き出すタイミングを失った。

 

 自室で着替えていたら、何かが割れる音がした。急いでリビングへ駆け込むと、ミシェルが床に散らばった皿を片付けている。


「大丈夫か?」

「ごめんなさい。お皿を割ってしまいました」


 フェリックスもしゃがんで破片を拾い始めた。


「それより怪我は?」

「ありませ……あっ!!」


 ミシェルは小さく悲鳴を上げて人差し指を口に含んだ。割れた皿はナイフのように尖っており、それで指を切ったらしい。


「見せてみろ」

「大丈夫です」

「判断するのは私だ」


 そう言って、ミシェルがさっと後ろに隠した指を強引に引っ張った。案の定、白い指先に赤い血が流れている。


「舐めれば治ります」

「犬じゃあるまいし、そんな民間療法は……」


 フェリックスははっとしてこちらに視線をやった。そして、罰悪そうに「感心しないやり方だ」と救急箱を取りに立ち上がる。

 わたしは犬なんだから気にしなくてもいいのに。

 ミシェルが残りの破片を拾っていると、腕を掴まれてキッチンに連れていかれた。水道水に指を差し入れて傷口を洗い流す。覆い被さるフェリックスの体温を背中に感じて鼓動が早くなる。シンクに流れ落ちる水の音とドクンドクンと脈打つ心臓の音だけがミシェルの耳に聞こえた。

 血が止まったところで、フェリックスは手際よく傷口を消毒して細い指に絆創膏を貼る。ふっと見上げるミシェルの瞳にフェリックスがいた。精悍な顔は見慣れているのにいつもときめきが止まらない。

 

「ありがとうございました」

「後は私がするから休んでなさい」

「はい」


 いつもなら二人譲らないのだが、今回はミシェルが折れることにした。彼は言っていた、時には甘えることも大事だと。




 翌日、クリスは完全な二日酔いで出勤した。嫌な思い出は酒で流せとマシューに浴びるほど飲まされた結果である。そのマシューはけろっとして勤務に就いていた。

 ちらっと腕時計を見やりため息をつく。そろそろフェリックスが出勤する時間だ。昨日、喧嘩腰な態度を取っただけに居心地がすこぶる悪い。黒髪の上官は寛大だが、ミシェルのことになると話は別だ。そして、隊長が現れるといっそう身を硬くした。


「おはようございます」


 先に挨拶すると、フェリックスは酒臭さに一瞬眉をひそめた。


「おはよう」

「あの、昨日は……」


 言い掛けたクリスを片手を挙げて遮り、上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。しばらく相手の話に聞き入り、次第に険しい表情へ変わっていく。


「わかった。すぐ行く」


 そう言って通話を終えると、怪訝そうなクリスに向き直った。


「急用ができた。後を頼む」

「え!? 急用ってなんですか!?」


 フェリックスが充分な説明もなく足早に去ってしまったので、クリスは唖然と立ち尽くした。


「さっき隊長殿がいたと思ったんだが」


 マシューがファイルを小脇に抱えてやってきたので、クリスはやっと我に戻った。


「それが急用があるとかでいなくなりました」

「急用ってなんだ」

「さあ」

「おいおい、そこを知っておくのが隊長付きの役目だろうが」


 いくら負い目に感じているとしても、ちゃんと自分の任務は果たすべきである。煮えきらない態度にマシューは呆れた。「いきなりだった」とか「理由を教えてくれなかった」とかクリスが反論して、しまいには「嫌われた」だの「もうおしまいだ」だの涙目で訴え始めた。


「わかった、わかった。なんとかするからあとは俺に任せろ」


 マシューは昨日に引き続き、またもや慰め役に回らなければならなかった。



 フェリックスが任務を放って向かった先はドッグカフェ『dolce cane』だ。先ほどの電話はモニカからで、バイトに来たミシェルが倒れたとのことだった。取り敢えず店の奥で寝かせているが、どうしたらいいか分からず電話したという。

 ミシェルが倒れる時は体に変化が起きる。もうすぐ命が消えると言った愛犬の『ミシェル』の言葉が脳裏に蘇り胸がざわつく。もし、このままミシェルが死んだら……。最悪な結果しか想い描けなくなった自身が情けない。

 やっとたどり着いた店の玄関にはまだ『準備中』の札が掛かっていた。チャイムを鳴らすと、モニカが急いで出迎える。


「お仕事中に電話してすみません」

「ミシェルは?」


 モニカが休憩室がある店の奥へ案内した。ミシェルは仮眠をとるためのソファーベッドで眠っている。近づくと息遣いが荒く、額には汗が滲んでいた。


「病院へ連れていった方がいいのか迷って」


 モニカが水で濡らしたタオルで、ミシェルの顔の汗を優しく拭う。迷ったと言いつつ医者に連れていかなかった彼女の判断に感謝した。もし、検査して人間じゃないとばれたらどうなっていたことか。過去にミシェルに異変が起きた時、フェリックスもそれで随分悩んだものだ。

 モニカは、ミシェルが倒れるまでの様子を事細かに話してくれた。店に来た頃から少し元気がなく、モニカが休むよう勧めたが「大丈夫」と言い張ったらしい。ミシェルに掃除を任せてモニカは厨房で仕込みをしようとした矢先倒れた。


「やっぱり休ませればよかった」


 フェリックスは、自身を責めるモニカの肩に手を置いた。


「休めと言っても、きっと言うことを聞かなかっただろう。ミシェルはそんな娘だ」

「コールダー隊長……」

「家に連れて帰る。タクシーを呼んでくれ」

「はい」


 ここにいても、却ってモニカに心配と迷惑を掛ける。フェリックスはミシェルを横抱きして、モニカが呼んだタクシーに乗り込んだ。

 家に到着して、ミシェルの部屋のベッドに寝かせた。匂いでわかったのか、彼女の表情が少し和らいだ。モニカがしてくれたように、濡れたタオルで噴き出す汗を拭うとミシェルがうっすらと目を開けた。


「ミシェル、私が分かるか?」


 ミシェルの唇がかすかに動いた。声を出すのもつらそうだ。人間なら薬を飲ませたり病院へ行ったり対処の仕様もあるのに、そうできないもどかしさにたまらず彼女の手を握る。せめて励まそうとするも、無愛想な性格だから言葉が出てこない。


「良くなったら市場へ買い出しに行こう」


 我ながら気が利かない台詞に、ミシェルはわずかに微笑んだ。









 



 

 





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