その6
ミシェルはスープの味見をしてため息をついた。味ではなく気持ちの問題である。
《料理は心です》
いつぞや見た料理番組でそんなことを言っていた。フェリックスに美味しい料理を食べてもらいたい、心を込めて作っていたが最近自信がない。
この間、サラダを一口食べてフェリックスが激しくむせた。慌てて水が入ったグラスを手渡すと、彼は真っ赤な顔で飲み干した。
「大丈夫ですか!?」
「ああ」と語尾が掠れている。ミシェルもサラダを食べてみてむせた。ぼんやりしてドレッシングの酢を入れすぎたらしい。
「たいちょーさん、ごめんなさい!!」
「寝不足も治りそうだ」
酢は健康にいいというが、これはやりすぎである。
思い出すだけで気が重くなる出来事だった。ドアが開く音に、ミシェルはコンロの火を止めて向かう。玄関には怖いほど顔を強張らせたフェリックスが立っていた。よほど急いできたのか肩で息をしている。
「たいちょーさん、どうしたん……きゃっ!!」
いきなり抱き締められて、ミシェルはフェリックスの腕の中で大きく目を見開いた。温もりと力強さに包まれてしばし呆然とする。
「たいちょーさん、苦しいです」
くぐもる声で訴えると、フェリックスが体を離した。なにか言いたげにして、また口を固く結ぶ。
「なにかあったんですか?」
フェリックスのただならぬ行動にたまらず訊いた。
「物騒な事件があったから心配だった」
「そうなんですね。戸締まりをしっかりしなきゃ」
少しも疑う様子がないミシェルに、フェリックスはほっとすると同時に嘘も上手くなったと自嘲する。
《せめて普通に過ごしてあげて》
抱き締めたあとに、事実を確かめようとしたが《ミシェル》の言葉で思い止まった。詰問すれば答えるかもしれない。だが、それは彼女の意思を無視することになるのでないか。なぜミシェルが隠しているか、恐らく自分に心配をかけたくないからだろう。悲しんだりいつも以上に気を遣わせたくないのだ。
動物は死に行く姿を見られたくないのだという。だとしたら、犬であるミシェルも行方をくらます可能性がある。
初めて真実を知るのが怖いと感じた。数々の修羅場を経験したのに不安で身震いがする。
「たいちょーさん?」
ミシェルが怪訝そうに見ていた。
「シャワーを浴びてくる。食事の支度をしてくれ」
「はい」
明らかに様子が変だ。今日なにかがあったに違いない。それでも訳を訊けないのは、彼女もまた秘密を持っているから。
朝、目覚めてリビングへ行くとテーブルには既に料理が並んでいた。
「おはようございます」
「おはよう」
椅子に座りコーヒーに手を伸ばす。芳ばしい香りを堪能するようにゆっくり飲んでそっと口を離した。コーヒー好きなフェリックスのために、ミシェルが毎朝豆を挽いてドリップする。ドッグカフェで働き初めて一段とうまくなった。
二人揃うと食事が始まる。今朝は野菜とベーコンを細く切って煮込んだコンソメスープだ。温かいスープは身も心も和ませる。
もし、ミシェルがいなくなったら家庭的な料理も食べられなくなる。外食すればいいのだが、今となってはどこか味気なく感じる。
「また味が変ですか?」
無表情は想定内にしても、失敗続きのミシェルが恐る恐る尋ねた。
「いや、今日も美味い」
「よかった。そのベーコン、マシューさんのお薦めなんですよ。なんでもご実家の近くにあるお肉屋さんで売っているとか」
「モーガン軍曹はああ見えて食い物にはうるさいからな」
「ああ見えて?」
「熊みたいになんでも貪り食うイメージがあるとは思わんか?」
ミシェルは想像してみた。大きな熊のマシューが川で魚をくわえて仁王立ちしている姿に思わず吹き出した。
「ぷははは。マシューさんに悪いですよ」
「笑うということは認めたも同じだぞ」
「だって……」
このあとは言葉にならず笑い転げた。こんなに笑ったのは久しぶりで、先が見えない自身も未来も忘れるほどだった。そんな彼女に笑顔にフェリックスも口角を上げた。
部隊に出勤するとクリスが出迎えた。毎朝の日課なので、表情で部下のその時の精神状態がわかる。
「私に話があるのか?」
「えっ!! なんでわかったんですか!?」
「何年一緒にいると思っているんだ」
「さすがです。隊長、実はミシェルちゃんのことなんですが」
また、ミシェルか。
二人は隊長室へ入り、フェリックスがクリスに向き直った。
「隊長直々にお願いがあります」
「言ってみろ」
「ミシェルちゃんとの交際を許可してください」
「はっ?」
「あ、いえ、フラれたんですが諦めきれません」
と、口ごもる。そういえば、この青年はミシェルに片想いなのをマシューから聞いたことがあった。あれから目立った動きがなかったので、てっきり諦めたと思っていただけに驚いた。
「保護者代わりの隊長に話を通しておくのが筋だと思いまして」
若いのに律儀なものだ、そう感心しながら頭は警戒体制を促している。今の状態で長い時間、人と接するのは危険だ。アルバイト先のモニカは事情を察している節がある。安心してミシェルを任せられる人間は限られているのだ。果たして、クリスに残酷な未来が受け止められるのか。
フェリックスは正面を見据えた。
「心掛けは立派だが、許すわけにはいかん」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「私のことはどう思うと構わない。だが、これ以上ミシェルに関わるな」
「それは命令ですか?」
「だとしたら?」
ダークグリーンの瞳はきっぱり『命令』と言っている。
「……わかりました」
クリスは納得したと思えない顔で敬礼して部屋を出た。
「ああ、くそっ!!」
クリスは隊長室をあとにして裏庭で叫んだ。それでも怒りが収まらず地面を蹴散らす。
「大荒れだな、隊長付き」
マシューの登場に、クリスは恥ずかしいやら情けないやらで顔を真っ赤にした。余計なことに首を突っ込みたくないが、あまりにも荒れていたので理由を訊くことにした。
「どうした?」
クリスは言い掛けてはやめて口をつぐんだ。ミシェルと何かあったら落ち込むだろうし、勤務ではここまで感情を露にしない。考えられることはただ一つ。
「隊長殿とやり合ったか?」
クリスの顔色がさっと変わった。
当たりか。こりゃ、穏やかじゃねえな。
マシューはポリポリと後頭部を掻いた。
「忠犬のようなお前さんがなんでまた?」
「実は、隊長に交際を許してくれと頼んだんです」
「へっ!?」
これにはマシューも驚いて目を丸くした。
「おいおい、いくら敬愛しているからってそりゃマズいだろう?」
「どうしてですか!? これは本人たちの問題でしょう!?」
「まあ、そうだけどよ。で、あいつはなんて?」
「だめだそうです」
「だろうな」
呆れた口調に、クリスは掴みかかる。
「命令してまで拒む理由ってなんですか!?」
「落ち着けって!! よく考えろ。相手は隊長だ、立場もある」
「そんなに俺は頼りないですか!?」
いつもこうだ。フェリックスの色恋沙汰を尻拭いするのはマシューの役目だった。別れた女が復縁を懇願するのを宥めて帰すの繰り返し。影の努力も知らないで次から次と火種を残す上官にうんざりする。
まったく、今度の酒はしっかり奢ってもらうからな。




