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隊長さんちのわんこ《ミシェル》  作者: 芳賀さこ
第九章 さよならを言う同居人
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その5

 ミシェルは広場の雑貨屋へ来ていた。

 閉店ぎりぎりまで居座るつもりが、「とにかく話し合いなさい」とモニカに諭されて早々に帰された。この時間だと、夕食の準備をしていればフェリックスが帰ってくるかもしれない。二人きりになるのが嬉しいやら悲しいやら複雑な乙女心である。「はあ」とため息をつきながら歩いていると


「ミシェルちゃーん!!」


 クリスが笑顔でこちらへ走ってきた。軍服なので部隊からの帰りだろう。


「こんばんは。今お帰りですか?」

「一足先に帰らせてもらったんだ。隊長ももうすぐ帰宅なさるよ」

「そうなんですね」

「ところで、体調が悪いって聞いたけど大丈夫かい?」


 以前、クリスやマシューを夕食へ誘った約束を思い出した。フェリックスが、彼女の不調を気遣い断ってくれたらしい。


「お食事なんですけど、誘っておいてごめんなさい」

「大丈夫。今度でいいから」


 果たして『今度』があるか。たちまちミシェルの表情が曇った。

 クリスとは出会った頃からとても親切に接してくれた。明るく陽気でおっちょこちょい、憧れのフェリックスの元で日々忙しく飛び回っているクリスは、マシューと同じくらい大切な友達だ。

 『気持ちは言葉にしないと伝わらない』と、誰かが言った気がする。感謝の気持ちを伝えるなら、正気を保っている今しかない。


「クリスさん、今まで親切にしてくれてありがとうございます」


 まるで別れの挨拶みたいな台詞に、クリスはぎょっとした。


「急にどうしたの?」

「ずっと思っていたんです。やっと言葉にできてよかった」


 美しい笑顔を向けるミシェルは淋しげに見えた。その手を掴まえないと、どこかへ行ってしまいそうな感覚に不安を掻き立てられる。


「ミシェルちゃん、どこか行くの?」


 ミシェルは長いまつ毛を伏せてしばらく黙っていた。その仕草が疑問から確信に変わりつつあるクリスが決心した。


「俺、君が好きだ」


 やった、言ったぞ!!

 告白したクリスの心臓は口から飛び出さんばかりに脈打っている。恥ずかしさで彼女をまともに見られず、俯いて返事を待った。


「わたしも好きです」

「え? ほんと!?」


 クリスが顔を上げる。

 

「はい。とても楽しくて親切にしてくれる大切な友達ですから」


 ミシェルは『好き』の意味を勘違いしている。確か以前もこんな場面があった気がする、あれはデジャ・ブーだろうか。


「えっと、ミシェルちゃん。友達じゃなくて男としてどうかな?」

「男として……ですか?」

「ほら、いろいろ思うことない? 一緒にいるとドキドキするとか」


 一緒にいるとドキドキする、ミシェルの頭にフェリックスが浮かんだ。隣にいるだけで紅潮して鼓動が早くなる相手とは。

 どうもミシェルの反応が鈍いので、クリスが畳みかけた。


「俺は毎日ミシェルちゃんのことを想っているんだよ。よかったら付き合ってくれないかな」


「もちろん、彼氏としてだよ」と照れ臭そうに言うと、ミシェルは驚いて目を見開いた。まさか、彼が自分をそんな風に見ていたとは思わなかった。

 クリスの真剣な瞳に、ミシェルは片想いの自身を重ねる。告白するのはどれだけ勇気がいることだろうか。クリスは嫌いではない。時間があれば、人間だったらもっと彼を知りたい。叶わぬ今は恋を成就させようとしないのに、曖昧な態度はクリスをもっと傷つけるはずだ。

 ミシェルの胸がちくっと痛んだ。いつだったかこんな感じはあった気がする。


「ごめんなさい」


 ミシェルは深々と頭を下げた。


「クリスさんはいい方です。でも、わたしはあなたの気持ちには応えられません」

「ほかに好きな人がいるの?」


 過去を清算するミシェルに未来は語れない。もう一度頭を下げて、唖然とするクリスの元を小走りで去っていった。




 クリスを帰して一時間後、フェリックスも帰路につく。部隊から自宅まで半分くらい来たところで、近づく青年に目を細める。


「今、帰り? 相変わらず仕事熱心だね」

「『ミシェル』か。ちょうどいい、訊きたいことがある」


 カスタードクリーム色の金髪、愛犬だった『ミシェル』だ。神出鬼没で、会いたい時にはなかなか現れてくれないもどかしい人物である。


「なに?」

「ミシェルの様子がおかしい。何か知っているか?」


 不調の理由を知っている、フェリックスはそう睨んでいた。『ミシェル』は黙ったままフェリックスを見つめる。


「知ってても話すつもりはないよ。彼女と約束したから」

「よほど深刻な事態らしいな」

「裏を読むあたりはさすがだね」


 『ミシェル』は苦笑して、両手を挙げて降参のポーズをした。実は、フェリックスに追及されなくても真実を話す心積もりはしていた。どんなつらい真実でも、彼は決して逃げたりしない、飼い犬として七年間一緒に暮らして自信があったからだ。

 すうっと息を吸って目を閉じて覚悟を決めた。


「僕たちは歳月を感じさせない。この意味わかるかい?」


 フェリックスに間が空く。あれこれと思案に暮れているようだ。


「歳もとっても外見はさほど変わらないってことさ。だから、大抵の人間は気付かず見逃してしまう」


 ミシェルも出会った頃は小さな少女だった。それから、体調が悪化するたびに十代後半から大人の女性へ段階を経て成長した。犬の年齢は人間のおよそ四倍、考えてみれば当てはまる。

 『ミシェル』の言葉が正しければ、彼女の最近の言動がおかしかったのは老化によるものだ。このまま生きていればミシェル自身、物凄い速さで時を駆け抜ける。そのあとは……。

 フェリックスは行きつく結論に背筋が凍る思いがした。


「ミシェルはもうすぐ死ぬのか?」


 頷く『ミシェル』に愕然とする。


「止める方法はないのか!?」


 フェリックスが激しく詰め寄ると、『ミシェル』は悲しい目で首を横に振った。


「無理だよ。自然の摂理は誰にも逆らえない」

「苦しむ姿をこのまま黙って見てろというのか!?」

「生あるものはいつか命尽きる。人間も例外じゃない」


 珍しく感情的になる彼を『ミシェル』は静かに諭す。

 あの雨の日、フェリックスと出会ってミシェルの運命は大きく変わった。彼にもう一度会いたい、そばにいたいと強く願って、愛犬の魂を呼び起こさせたという。『ミシェル』もフェリックスに最期を看取ってもらえずこの世に未練があったかもしれない。

 二匹の切ない想いが、神のいたずらで叶う時が来た。思い出とともに人間のまま死ぬか、すべてを忘れて犬に戻って生きるのか。それは禁断の取引として実現する。


「ぼくはいつまでも君のそばにいたかった。軍人として苦悩する君を少しでも慰めたかった。でも、それはミシェルが叶えてくれた」

「生き永らえることもできるんだな?」

「どちらを選ぶかは彼女次第さ。ぼくらは何もできない」


 苦渋の表情で見つめるフェリックスに、『ミシェル』は優しく微笑んだ。


「せめて普通通りに過ごしてやって。ぼくから最期のお願いだ、フェリックス・コールダー」


 途方もない話を聞かされて、一体どうやって普通に接しろというのか。唇を噛んで俯いていた顔を上げると、そこに『ミシェル』はいなかった。

 

 フェリックスはしばらくその場に立ち尽くす。やがて、ゆっくり歩き出して小走りとなった。一刻も早くミシェルの存在を確かめたかった。

 









 


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