その3
作り置きした料理を解凍したものだとミシェルが言う。確かにここ最近の献立だった。残り物みたいだと彼女は恐縮するが、フェリックスはやりくり上手につくづく感心する。
思えば、ミシェルはこの家に来て家事によく勤しんでくれた。お陰で一人で暮らしていた頃より健康的で人間らしい生活を送っている。
ミシェルはこの頃言葉数が少ないで、夕食は静かだ。会話の中でまたボロが出てはいけないと警戒しているのだろう。食べ終えたらさっさと片付けにキッチンへ行ってしまう。
フェリックスはいつのようにリビングのソファーで新聞を読み始めた。ミシェルも傍らで料理の本を眺めるのに、今度は浴室に逃げるように入っていく。やがて、パタパタと遠ざかる足音がしてミシェルの部屋のドアが閉まった。こんなに避けられては、フェリックスも見て見ぬふりができなくなる。「ふう」と大きく息を吐いて立ち上がった。
ミシェルの部屋の前まで来るとノックする。「なんでしょうか?」とミシェルの慌てた声とドタバタと音がした。
「入っていいか?」
「どうぞ」
部屋に入ってくるフェリックスに、ミシェルは急いで右手を体の後ろに隠した。本人は隠したつもりでもほどけた包帯が足元まで垂れている。どうやら自分一人で火傷の手当てをしようと悪戦苦闘していたらしい。
フェリックスはベッドに腰かけると、横をポンポンと叩いて座るよう促す。有無も言わせぬ強い眼差しに、ミシェルは恐る恐る従った。すっと伸びた腕に、ミシェルはびくっと首を竦める。
フェリックスが怪我した手を掴んで引っ張り出した。白い布がひらりと舞い、ミシェルは罰悪く俯いた。丁寧に包帯を巻くフェリックスの横顔をかすめ見る。精悍で整ったそれは出会った頃から変わらずときめく。
「だいぶ治りかけている」
「ありがとうございます」
手当てが済んで、二人の間に短い時間が流れた。先に口を開いたのはフェリックスだった。
「私はいつもお前のそばにいる」
「あの、どういう意味でしょうか?」
思わず尋ねたら、フェリックスは軽く頷いただけで教えてくれなかった。「お休み」と低い声のあとにドアが閉まった。
翌日、フェリックスは帰宅する道すがらドッグカフェ『Dolce cane』の近くを通ってみた。腕時計は閉店時間を指している。今日バイトなのか確認してこなかったが、まだ残っていたら一緒に帰ろうと思ったのだ。案の定、店内の明かりは消えてモニカが店から出てくるところだった。
「こんばんは。今、お帰りですか?」
「ああ。いつもミシェルが世話になっている」
「ふふふ、お父さんみたい」
モニカが笑うので、フェリックスは照れ隠しに軽く咳払いした。
「ミシェルなら夕方に帰りましたよ。水仕事はさせていないのでご安心を」
彼女はこちらの聞きたいことをいち早く察して答えてしまった。火傷の件は、ミシェルが無理しないためにあらかじめモニカに知らせておいてよかった。
「迷惑かけるな」
「ちっとも迷惑じゃないですよ」
「ならいいんだが」
「気になることでもあるんですか?」
やはり女の勘は侮れない。短いやりとりで問題を探り出す情報員並みの洞察力だ。一人でやきもきするよりは、共に働くモニカに相談した方がいいかもしれない。
「変わった様子はないか?」
「変わった様子?」
「たとえば、仕事中ぼんやりしているとか」
モニカはしばらく考えて、「よくやってくれます」と言ってすぐ「ただ……」と言葉を切った。
「ただ?」
「いつも一生懸命なんですけど、この頃余裕がないというか必死って感じで」
「余裕がない……。なるほど」
的を射た感想にフェリックスが唸る。
「ミシェル、なにかあったんですか?」
「大したことじゃない」
「大したことじゃないのに、すごく心配するんですね」
モニカは半眼にして彼を見た。フェリックスの鋭いそれとはまた違った威圧感だ。
「身内だから当たり前だ」
「そういうことにしておきましょう」
笑いながら戸締まりをするモニカを、フェリックスは憮然な表情で眺めた。
店先で立ち話をしている二人を傍観する人影があった。忘れ物を取りに来たミシェルだ。ガラスの向こう側にいるみたいで辺りの景色が虚ろに見える。あんなに近くにいるのに、触れようとしても阻まれて声を掛けようにも届かない。だけど、はたから見れば恋人みたいな光景になぜか胸が痛まなかった。
実は、ミシェルに残された時間は少ない。犬の寿命は十数年、人間の四倍の早さで歳をとる。人間の姿をしているとはいえ、彼女は『犬』だ。命の限界は確実に近づいている。記憶が抜け落ちるのも老化の兆しだった。
だったら、せめて悔いのない人生を送りたい。情けない姿を曝すよりは出会った頃のままの自分でありたい。
フェリックスとモニカに恋愛感情がなくても、これから先の展開は誰にもわからない。
ミシェルは、声を掛けることもなく家の方角へ歩き出した。
「一緒に帰らないのかい?」
行く先の暗がりに立つ人物に目を凝らすと、カスタード色の髪の青年がだんだん現れた。
「《ミシェル》さん」
「たいちょーさんがせっかく迎えに来てくれたのに」
口真似されたミシェルが寂しく微笑む。
「今はモニカさんとお話しているから」
「惹かれ合ったらどうする?」
「たいちょーさんが幸せなら構いません」
彼女の健気な台詞に、《ミシェル》は肩を竦めた。
「わからないな。彼が好きだから人間の姿を望んだんじゃないの?」
「はい」
「だったらどうして伝えないのさ? 気持ちは言葉にしないと伝わらないものだよ。もし、心の中で通じ合うなんて思っていたらそれこそ人間の傲慢だ」
今夜の《ミシェル》はやけに辛辣で、オブラートに包もうとはせず核心を突いてくる。
「たいちょーさんも傲慢でしたか?」
今度はミシェルが強い口調で問う。
「あなたとたいちょーさんは、一度も心を通わせたことはなかったですか?」
《ミシェル》はフェリックスを信頼していた。だからといって、人間と動物も同じ気持ちとは言い切れない怖さもある。《ミシェル》は「どうかな」と曖昧に答えた。
「少なくともたいちょーさんはあなたを想ってました」
今のミシェルに遠慮や恐縮の感情は一切なかった。揺るぎない強い眼差しで見つめ返す。《ミシェル》の脳裏に幼いフェリックスと過ごした日々が甦った。歳を重ねるにつれて笑顔こそ少なくなったが、彼の真心は嘘ではなかった。
「そうさ。だから、もう傷つくのは見たくないんだよ」
「わたしはたいちょーさんを傷つけません」
「君がいなくなれば悲しむ」
「悲しませることもしません」
「……決めたんだね?」
ミシェルは小さく、だが力強く頷いた。
家にはフェリックスが先に帰り着いた。玄関を開けようとした時に背後から延びる影に振り向く。
「ミシェル、出掛けていたのか」
「お帰りなさい」
「お前も、だろ?」
「そうでした」
フェリックスが笑うとミシェルも微笑んだ。久しぶりに見る偽りのない笑顔。
「あ、たいちょーさん。月が綺麗ですよ」
ミシェルが指差した方角を見上げた。黄金に輝く満月が二つの影を作り出す。




