その2
フェリックスが出勤すると、いつも爽やかな笑顔のクリスが浮かない顔で出迎えた。感情と表情が直結している部下なので、最近良くないことがあったかもしれない。そっとしておいた方がいいのか悩んでいると、クリスから挨拶してきた。
「おはようございます」
「おはよう」
やはり様子がおかしい。ここは上官として理由を聞くべきかと声を掛けた。
「どうした?」
クリスは上目使いでこちらを窺っている。言うべきかどうか躊躇ってやっと口を開いた。
「隊長がお忙しいのも知ってます。俺が直属の部下だから、個人的に優遇されるべきとは思いません」
「何を言っている?」
妙なことを言い出したクリスに眉を寄せる。
「ミシェルちゃんから聞いてませんか?」
「なんだ」
「彼女を食事に誘ったら、モーガン軍曹も呼んでみんなで夕食を……ってことになったんです」
きっとミシェルと二人っきりになりたかったのだろう。彼女はクリスの想いを見事にスルーしてしまった。
「そうか」
フェリックスが申し訳なさそうに言うと、クリスは大きくかぶりを振った。
「ミシェルちゃんの手料理を食べられるなら俺は構いません。でも、これって二週間前の話なんですよ」
どんなに待っても三日以内には返事をくれたのに、今回はそれっきり音沙汰がない。なので、フェリックスが渋っているのではないかと勘違いしたという。
ミシェルもバイトと家事と忙しいから忘れていたかもしれない。クリスもそう思ったらしく彼女に訊くのを躊躇っていたのだ。果たして律儀な彼女がクリスとの約束を忘れるだろうか、最近様子が変なのでやけに気になった。
自宅に帰ったフェリックスは、夕食の準備に追われるミシェルを呼んだ。
「なんでしょうか?」
「オレガレン少尉と夕食の約束をしたそうだな」
まったく身に覚えがないのかミシェルはぽかんとしている。
「彼が食事に誘ったらお前はモーガン軍曹も一緒にと言ったそうだ」
「クリスさんがわたしと?」
「ああ」
ミシェルは必死に考えて、やがて思い出したかのような声を上げた。
「確かそうでした。わたし、うっかりしてて」
苦し紛れの嘘に、フェリックスは歯痒さを感じてついむきになって問う。
「いつ誘われた?」
「え? この間……です」
「この間っていつだ」
険しい表情で問い詰める彼に、ごくりと唾を飲み込んだ。
たいちょーさん、気付いてる!?
テンパって真っ白な頭で言い訳を考えていた時である。鍋が吹きこぼれる音に、ミシェルはこれ幸いとキッチンへ逃げるように急いだ。
「あっ!!」
ミシェルが短い悲鳴をあげると同時に、ガシャンと派手な音がして何かが床に落ちた。慌てるあまり蒸気で熱くなった鍋の蓋を素手で開けようとしたのだ。駆けつけたフェリックスは、ミシェルの手を掴むと急いで水道水で冷やした。
「痛むか?」
首を横に振ると、フェリックスは小さく息を吐いて安堵する。
「支度の途中に話し掛けて悪かった」
「たいちょーさんのせいじゃありません。わたしがちゃんと火を消さなかったのが悪いんです」
「しばらくこのままにしていろ。家事も当分するな」
「でも」
「痕が残ったらどうする」
「わたしは犬だから構いません」
「犬も人間も同じだ」
ミシェルの一言が自棄的に聞こえた。苛立ちを抑えた低い声に気まずい空気が漂い会話が続かない。二人は黙って止めどなく流れる水を見つめていた。
部屋に戻ったフェリックスは苛立ちが不安に変わった。火の元を離れるときは必ず消す『火の用心』は、幼いミシェルがキッチンへ立つ最初で大事な約束だった。それなのに、今まで忠実に守ってきた約束すら忘れてしまったというのか。
いや、私が呼んだから焦ったのだろう。きっとそうに違いない。
フェリックスは部屋を照らす三日月を見ながら自身に言い聞かせた。
ミシェルは自分のベッドに座って項垂れた。見下ろす視線の先には包帯が巻かれた指がある。フェリックスが完璧な応急手当をしてくれたのだ。
身を乗り出して机の引き出しからの小さなノートを取り出して膝に置く。日記をという形で記録していたはずなのに、クリスとの約束は抜け落ちたのかどこにもなかった。ミシェルはきゅっと唇を噛んだ。
夕食会はミシェルの火傷で延期となり、フェリックスはその旨をクリスに伝えた。クリスは怪我の具合をひどく心配していたが、軽傷とわかって表情が和らいだ。
一つ問題が解決してフェリックスは静かに息を吐く。待機室の壁に寄り掛かって窓から空を眺めた。午後から曇りという天気予報の通り、次第に雲が集まってきた。
マシューは朝から珍しく机にかじりついていた。報告書作成を逃げ回っていたが、締め切りが迫りフェリックスに催促されたのだ。いっそうクリスに押し付けようと考えていたら、勘づいたのか近寄ってこない。諦めて太い指でパソコンのキーボードをたどたどしく叩き始めた。馴れない作業に、三十分も経たないうちに飽きて首を回したらポキポキと骨が鳴った。
ふと顔を上げると、フェリックスが窓の外を眺めて物思いに耽っている。
強面だが整った横顔、長い手足、誂えたような軍服の中には鍛えた肉体。決して愛想は良くないのに、そこがストイックでたまらないと女性達が騒いでいた。マシューに言わせればただの仏頂面である。
休憩とばかりに席を立つ。
「部下が苦労している横で、隊長殿は黄昏れるとはいいご身分だな」
マシューの皮肉に、フェリックスは目だけ向けた。
「手伝ってやろうという思いやりはないのかねえ」
フェリックスは「ない」とばっさり切り捨てて、体を壁から離した。
「悩み事があるなら相談に乗るぜ?」
「モーガン軍曹が報告書を提出すれば解決する」
「ほんと、お前さんは昔っから可愛いげがないよ」
「なくて結構。昼過ぎまでには提出するように」
「へいへい」
マシューが自分の席へ戻りかけて振り向いた。
「お前さんのいいところは器がデカイことだ。どんと構えてろ」
マシューがどんな意味で言ったのか敢えて訊かなかった。この大男は、大雑把な性格と容姿で誤解されやすいが洞察力に優れている。ミシェルと血縁関係がない秘密を見抜いたのも彼で、フェリックスの不安を察した台詞だったかもしれない。
そう考えたら心なしか気持ちが楽になった。
たとえ彼女が何者でも『ミシェル』に代わりはない。成長の節目で犬に戻りかける度に、そう自分に言い聞かせてきたはずではないか。ミシェルに異変が起きているなら、問いただすのではなく待ってやるのも愛情だと思う。
愛情? 何に対しての愛情だというんだ!?
保護者としてなのか一人の男としてなのか、また心にわだかまりが残った。
家に帰ると、ミシェルが力ない笑顔で出迎えた。慎重にバッグを受け取り、慎重に言葉を探る。よほど警戒しているようだ。
「お帰りなさい」
「ただ今。夕食の支度はまだだな?」
すると、ミシェルが罰悪い顔をした。
「……もう済ませました」
「家事はするなと言っただろう」
「少しなら大丈夫……です」
ダーググリーンの瞳に見つめられると、心の奥を覗かれているような錯覚に陥る。昨日の今日で、フェリックスがどんな反応をするのか怖かった。




