その1
フェリックスが一瞬見せた寂しげな目に、ミシェルは慌てて付け加えた。
「最近忙しくてぼーっとしてました」
彼は何も言わず食事を続けたので、ほっとする一方かすかに罪悪感が残る。フェリックスは二人が過ごした日々を覚えてくれているのに、自分は忘れていた。ひとつひとつが大事な思い出なのに、抜け落ちていく記憶にミシェルは不安で身震いする。
「大丈夫か? 調子が悪いなら帰ろう」
たいちょーさん、優しいなあ。
心配そうに尋ねるフェリックスを見ていたら涙がじわりと溢れた。ますます不安げな彼に微笑む。
「美味しい料理をたいちょーさんと一緒に食べられて幸せです」
「大袈裟だな」
「大袈裟でしょうか?」
「ああ。いつも一緒に美味い料理を食べているじゃないか」
美味い料理とはミシェルが作る手料理のことだ。最高の褒め言葉にミシェルの顔が綻んだ。
二人はレストランを出て自宅へ向かう。フェリックスが「遠回りしよう」と言い出したのでミシェルはついていくことにした。親子連れや学生が行き交う昼間と違い、夜は大人の姿が多く見られる。仲睦まじいカップルとすれ違う度、ミシェルは目の端で追う。今ならさりげなく手を繋けば彼は拒まず受け入れてくれるかもしれない。
手に触れようとした矢先、不意にフェリックスの足が止まった。
「こんばんは。いい夜だね」
外灯の下からカスタード色に輝く髪が現れてミシェルはひどく狼狽える。もう一人の『ミシェル』が、まさかフェリックスの前に現れるとは思わなかったからだ。ミシェルの動揺をよそに彼は歩いて来て二人の前で止まる。
「たいちょーさん、あの……」
「彼はすべて知ってるよ。ぼくが愛犬の『ミシェル』ってこともね」
ミシェルは驚いて見上げると、フェリックスは小さく頷いた。
「さすがというべきかな。普通ならこんな非現実的な状況を信じないけどね」
『ミシェル』がさらりと笑う。
「目の前に起きていることが現実だ。疑いようもない」
「相変わらずだね。昔からそうだった」
『ミシェル』は、隣でオロオロしているミシェルに微笑みかけた。
「ということで、これからはこそこそ隠れず堂々と逢えるというわけだ」
今までだって堂々と会っていたじゃないか。
フェリックスは心の中で呟く。
「せっかくの夜を邪魔して悪かったね」
立ち去る『ミシェル』が彼女に何かを囁いた。ミシェルの表情が強張ったのをフェリックスは見逃さなかった。『ミシェル』が完全に視界から消えたのを確認して、フェリックスはミシェルに訊く。
「彼は何を言った?」
「おやすみなさいって、ただの挨拶です」
それっきり口を閉ざして歩き出すミシェルの腕を掴んだ。やはり目を逸らしたのは彼女の方だった。これ以上は訊かないでほしいとばかりに、家に帰り着くまで口を閉ざしてしまった。
この日を境に、フェリックスはミシェルの異変が目につくようになった。一昨日も朝食を作ろうと冷蔵庫を開けたミシェルが小さく声を上げた。
「どうした?」
「卵を買うのを忘れていました」
「別になくても構わんが」
「牛乳もないんです」と申し訳なさそうに付け加える。卵も牛乳も毎朝必ず摂らなければならないというこだわりはない。ただ数日前まで欠かさなかっただけに気になった。
「ごめんなさい」としおらしく謝るミシェルに言う。
「忘れることだってある。気にするな」
「コーヒーでいいですか?」
「ああ」
コーヒーは淹れてあったので、フェリックスは安堵した。これは欠かせない日課だ。家事とアルバイトの両立で少し疲れているのかも知れない、もっと労わってやらねばと思った。
フェリックスは、勤務が終わると深夜まで営業している店に寄った。今朝のやり取りから卵と牛乳を買うためである。ミシェルとかぶるかも知れないが当分は買わないですむ。部隊の近くなので軍人が立ち寄るのは珍しくないが、やはり強面の彼は浮いていた。現にちらほらいる客が二度見していく。
そういえば、一人で来るのは久しぶりだな。
ミシェルが来てからこの店もご無沙汰だった。卵と牛乳を買い物かごに入れていると、横から缶ビールを追加する者がいた。「毎度あり」と笑うマシューである。
「お前さんほど買い物かごが似合わん男はいねえな」
それはお互い様だと、フェリックスは声を大にして言いたい。
「似合ったところでなんの得になる?」
「好感度が上がるぞ。意外と家庭的なんですねってな」
科を作るマシューは恐ろしく不気味で、たまらず距離を置いた。
「ところで、お嬢ちゃんの具合悪いのか?」
「いや、そう見えるか?」
「訊いただけだよ。元気ならそれでいい」
大した意味はないとは思うが、今のフェリックスにはどうも引っ掛かる。ふっとマシューに意見を聞きたくなったがやめた。この間はたまたま買い忘れただけかもしれない。忙しくなると忘れっぽくなるものだ、フェリックスにも見覚えがある。
家に帰ると、出迎えたミシェルがフェリックスが持っている買い物袋を見つけた。
「わざわざ買って来てくれたんですね」
「毎日使うから買い置きしても困らんだろう」
「はい」
ミシェルは受け取ると早速冷蔵庫に入れた。中には既に卵と牛乳があった。
「さっき、モーガン軍曹に会った」
「モーガン軍曹?」
「マシューだ」
「ああ、マシューさんですね。ご無沙汰してますもの」
「この間、会ったばかりだろう?」
少し間が空いて「そうでした」とミシェルが小さく笑った。フェリックスはミシェルにソファーへ座るよう促す。ミシェルは準備する手を留めて言う通りに彼の隣に座った。
「ミシェル、疲れるならアルバイトを辞めてもいいんだぞ?」
「家事が疎かになっているなら気を付けます」
「両方とも一生懸命だから心配している」
「……」
ミシェルは伏せ目がちに口を噤む。
「隠していることがあるんじゃないのか?」
両肩を掴んで覗きこむフェリックスと目が合い、また逸らす。
「私の目を見ろ」
「たいちょーさん、痛いです」
追及しようと焦るあまりつい力がこもり、ミシェルの顔が痛みで歪んだ。「すまん」とふっと肩から手を離す。
「食事にしよう」
「……はい」
今夜の夕食は砂を噛んだように味気ない。
後片付けを済ませて自分の部屋に戻ったミシェルは急いで机に向かった。ノートを広げてペンを取る。
「卵と牛乳は○、マシューさんの名前は『モーガン』」
ノートにびっしりと書かれたメモは今夜の分だけではなかった。メモだけではなく、その日の出来事をなるだけ思い出して何日もこうして綴っている。でないと曖昧な記憶だけでは悟られてしまうからだ。強面で無表情でわかりづらいが声色で感じる。彼は職業柄人の感情を見抜くのが得意だ。だから、ミシェルの些細な変化も見逃さない。
たいちょーさんにこれ以上心配かけられないもの。
書き終わると引き出しの一番下に仕舞った。フェリックスには決して見られてはいけない物だから。
ベッドへ潜って寝返りを打つと窓から三日月が見えた。間もなく雲に阻まれて残念ながら隠れてしまった。ミシェルは自分の心境を映し出しているように思えてならなかった。




