その8
嵐の夜から気のせいかミシェルに元気がないように思われたので、フェリックスは仕事も早々に切り上げて帰宅した。
「お帰りなさい」
「ただ今。夕食はまだだな?」
「はい」
玄関まで出迎えた彼女にカバンを渡してキッチンへ直行する。腕まくりして手を洗うと、冷蔵庫から幾つか食材を取り出して支度を進めた。
「今作るから待ってろ」
「あ、わたしが作っておきました」
「お前が?」
意外な答えに、野菜を洗うフェリックスの動きが止まった。食事を作るなど随分と進歩したものだと感心してメニューを訊いてみる。
「何を作ったんだ?」
「ツナサラダです!!」
「ほお」
透明な深い容器に千切ったレタスやベビーリーフがてんこ盛りのサラダがテーブルに置かれた。
ちゃんと形になっている、感心感心。
「それとトマトサラダです」
「は?」
「で、これがプレーンサラダ」
「……」
所狭しと置かれる三つのサラダに目が点だ。それに突っ込みたい部分は多々ある。
プレーンサラダ? ただのサラダとどう違うんだ?
ガスは使用禁止なので、葉物野菜をちぎって盛り付けるサラダなら……と思ったのだろう。眉間にしわを寄せるフェリックスに、ミシェルの得意顔はたちまち不安に変わった。
「ダメでしたか?」
アヒル口に前髪から覗く上目遣い、これは反則だ。男心くすぐる仕草を本人が意識していないだけに始末が悪い。
空腹とミシェルには勝てず、取り敢えず胃に野菜を詰め込んだ。食べても食べても減らない野菜の山に青虫になった気分である。
ござっぱりとした夕食のあとは紅茶とクッキーでまったり過ごした。フェリックスが何かを思い出してカップを持つ手が止まる。
「嵐の日、どうして連絡してこなかった?」
彼の問いに今度はミシェルが険しい表情になった。
「連絡したら番犬の代わりにはなりません」
ああ、そうか。この子はずっとあの言葉を気にしていたのか……。
ミシェルと初めて会って、引き留めた時の言葉。
《うちにも番犬が必要だ》
フェリックスの中では、とうに『飼い主』という意識はないだけに罰悪い。
「私はお前をもう犬だと思っていない。第一、人間の姿をしているのに……」
ここからは先は、子どものくせにしっかりし過ぎているとか遠慮し過ぎとか説教が始まった。
話をまとめると、大人にもっと甘えろということらしい。言い方は少々キツイが、その言葉の裏にはミシェルを大切に想う気持ちがこめられていた。
普通は「わたしは犬です」など非現実的な話を誰が信じようか。それなのに、フェリックスは馬鹿にするわけでもなく当たり前のように受け入れた。
優しいのか変人なのか、果たしてどちらなのか。
「分かったな?」
はっと我に返ると、腕組をしてより一層険しい顔のフェリックスがいた。
「はい」
「よし」と頭を撫でる彼はすっかり父親である。
「分かったなら、私にわがままを言ってみろ」
「ええっ!? 今ですかっ!?」
フェリックスの無茶ぶりに、心の準備ができておらずオロオロした。そもそも、この生活に不満はないし不自由もない。強いて言うなら……。
「『ぱふぇ』が食べたいです」
「この間のやつか」
なら、今度の休みに連れていくと約束した。ついでに服も買うと言うフェリックスに首を横に振る。
「服はまだありますよ」
「だいぶ肌寒くなったから、もう少し厚手の物がいるだろう」
自分がミシェルにできることといったら、物を買い与えるしか思い当たらないのだ。躾けると言ってみたが彼女は教えたことは守るし、優等生の見本みたいなので正直フェリックスがいなくても生きていけるに違いない。
要するにフェリックスの意地なのだ。
「遠慮するなと言ったばかりだぞ」
「分かりました。楽しみにしてますね!!」
ようやく明るい笑顔がミシェルに戻ると、フェリックスも心底安堵した。
ある朝、呼び鈴が鳴ったのでフェリックスがミシェルに出るよう頼んだ。不用意にドアを開けるなと口うるさく注意されているので、恐らく彼の知り合いだろう。
玄関先に来たミシェルは覚えのある匂いに記憶を呼び起こした。
あ、この匂いは確か……。
「おはよう、ミシェルちゃん」
「クリスさん、おはようございます」
青い目を細めて挨拶するクリスは、軍服の効果で凛々しく見える。聞けば、今朝は自宅から直接他の部隊へ向かうとのことだ。
「中で待っててくれ」
奥からフェリックスが言うと、ミシェルが体を開けたので「失礼します」とクリスが部屋へ入っていく。
リビングのソファーに腰を下ろすと、タイミングを見計らってミシェルが現れた。
「ハーブ茶をどうぞ」
「ありがとう」
クリスに茶を出し終えたミシェルはすぐにサイドの髪を手で押えた。
「どうしたの?」
「寝癖がついちゃって」
手を放すとぴょこんと跳ねる髪にクリスが失笑する。笑われた方は真っ赤な顔で俯いてしまったので、クリスは罰悪く後頭部を掻いた。
「笑ってごめん。お詫びに目立たないようにしてあげるから、後ろ向いて」
「あ、はい」
様子が窺えない不安そうなミシェルをよそに、彼は鼻歌まじりで器用に長い髪を編んでいく。
「何をなさっているんですか?」
「ん? 俺にも妹がいてね、小さい頃はこうやって髪を編んでやったものだよ」
「編む?」
「だから、結構上手いよ? ほら、出来た!!」
支度を終えたフェリックスがリビングへやってくると、部下がなにやらミシェルの髪を触っていた。しかも慣れた手つきであっという間に髪を結い上げる。
クリスはいい若者だ。早とちりで少々頼りない部分もあるが人柄はいい。だが、二人で楽しそうにしているとどこか面白くない。
「おおーっ!! 素敵です!! ありがとうございます、クリスさん!!」
素敵? 私は言われたことがないぞ。
鏡を見て歓声を上げるミシェルにフェリックスの眉が跳ねる。
両サイドに編み込むと細い首が現れて、いつもより活発的な印象となった。はしゃぐ彼女と満足げなクリスを交互に見やり複雑な心境である。
フェリックスを見つけると、ミシェルは満面な笑みで駆け寄った。
「たいちょーさん、見て下さい!! クリスさんがしてくれました!!」
「そうか。よかったな」
言葉とは裏腹に、全然良くない仏頂面を上機嫌の彼女は気付かない。
「髪を洗うのが勿体ないですね」
申し訳なさそうに言うとクリスは笑った。
「また編んであげるから、髪はちゃんと洗ってね」
「ホントですか!? よかった」
キラキラした瞳で見つめられる部下を、フェリックスは恨めしく眺める。もし、自分にも妹がいたら彼女を満足させてあげられたのに、と……。
残念ながら、彼には三歳上の横暴な姉しかいない。彼女にさせられたといったら、バーゲン帰りの荷物持ちや交際を迫る男への用心棒だ。
「無駄にいい男だし迫力あるから丁度いいのよ」
こちらの都合などお構いなしだからたまらない。そんな姉と結婚した義兄を心から同情するし尊敬もしている。
義兄は彼女の横暴を笑って流せる寛大な人物だ。だから、結婚生活を継続していけるのだろう。
部下に対する劣等感と姉との迷惑な思い出に、フェリックスは盛大なため息をついたのだった。