その10
ダンスパーティーから数日が経った街は、交際したての初々しいカップルで溢れていた。『Dolce cane』にも犬を連れた男女の客が多く店内は甘い雰囲気に包まれる。モニカが言うには、ダンスパーティーが終わった数週間はこの状態が続くという。ミシェルのためとはいえ、不本意な相手と踊ったモニカは「すぐ別れちゃうわよ」と毒づきミシェルの苦笑を誘った。
「その後、どうなの?」
閉店後の片づけをするミシェルが振り向く。
「どうって……?」
「コールダー隊長と踊ったでしょ?」
「スラックスの裾が泥だらけで、染み抜きにかなり時間が掛かりました」
「そういうことじゃなくて」
天然な答えにモニカも苦笑いだ。
「最初に踊ったら恋が叶うってやつよ。なにか進展あった?」
「た、たいちょーさんとはそんな関係じゃありません」
ミシェルは真っ赤な顔で口ごもる。もはや白状しているのと一緒だ。
「残念。言い伝えは真実なのか立証できるかと思ったのに」
「たいちょーさんは言い伝えは知らないみたいです」
大きく背伸びするモニカがこちらを見た。
「でも、来てくれたじゃない。わたしが電話した時は来れないって言ってたのよ」
「たいちょーさんは優しいから、わたしじゃなくても来てくれるんです」
ミシェルの寂しげな笑みにモニカは何も言えなくなった。
これまでも、フェリックスは誰かが困っていれば手を差し伸べたはずだ。出会った雨の日、違う犬でも彼は同じことをするに違いない。自分だけが特別ではない、そう言い聞かせても溢れる想いは抑えきれずダンスパーティーに託した。願いが叶った今、もう望むものはない。
ミシェルが家に帰ってくると、部屋に灯りがついておらず静まり返っている。「お帰り」と出迎える者もいない。先ほどマシューから一緒に酒を飲むと伝言があったので、閉店まで手伝ってモニカと夕食を共にした。
風呂へ入り、しばらくリビングのソファーでお菓子作りの本を眺める。鍵が開く音に時計を見ると十二時を過ぎていた。玄関に行くと、ちょうどフェリックスがドアを閉めるところだった。寝ているミシェルを起こさぬようそっと。
「お帰りなさい」
「起こしたか?」
現れた彼女に、フェリックスは少し驚いた顔をした。首を横に振って、彼の鞄を受け取るとふわっと酒の匂いがした。無意識に顔を顰めたのだろう。
「相変わらず鼻が利くな」
彼女が問うよりも早く、フェリックスが罰悪そうに笑った。彼にも付き合いがあるのは心得ているし、酒を飲んできたくらいで幻滅するほど心は狭くない。
ただ今夜は少し匂いがきつく、以前の彼女なら眉間のしわが戻らなかったかも知れない。人間は悩んだり嬉しい時に大酒を飲むとマシューから聞いたことがある。今夜の彼はどちらだろうか。
フェリックスは、リビングのソファーに勢いよく座り軽く息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
ミシェルが持って来た水に虚ろな目を向ける。熱を帯びて少し潤んだ瞳に心臓がドキッと音を立てた。この目で一体何人の女性を虜にしてきたことか。
フェリックスは遅くなった理由をしゃべり始めた。どこか言い訳じみてミシェルはクスリと笑う。酔った彼は饒舌になる。前にも同じような場面があった。フェリックスは、ミシェルが楽しそうに聞いているので余計罰悪くなる。
実はここまで深酒したのには訳がある。それは数時間前のことだ。
「ちょっと顔貸してもらおうか」
フェリックスの勤務が終わるのを見計らってマシューが言った。少なくとも上官への言葉づかいではないが、フェリックスは黙って彼の後をついていく。
辿り着いたのは、マシューに似つかないしっとりとした雰囲気のバーだった。薄暗い店内の奥に進み二人向かい合って座る。
「先に言っておくが奢らんぞ」
先手を打つフェリックスに、マシューは「ちぇっ」と舌打ちして安い酒に注文し直した。
「ミシェルには俺から伝えておいたから心配するな」
時間を気にするフェリックスに言った。こういう根回しは素早い。店員が持ってきたグラスを掲げて二人は喉を潤す。
「私に話でも?」
「ミシェルの将来をちゃんと考えているか?」
グラスから口を離さず上目遣いでマシューの真意を探る。
「血は繋がっていないんだろ?」
不覚にも動揺して咽るフェリックスに、マシューは盛大なため息を吐く。
「なんだって姪なんて嘘をついた? 調べたらすぐバレちまうくらい聡明なお前さんならわかるだろうが」
部下に、しかもマシューに諌められてフェリックスは気落ちした。何故ばれたのか心当たりを探ってみたがやめた。今となっては意味のない無駄な作業である。
「どんな事情があるか聞かんが、ミシェルの気持ちは気づいているんだろ?」
マシューがダンスパーティーの件を示唆しているのが痛いほど感じる。やはり行くべきではなかった。しかし、恐るべきはマシューの洞察力だ。
フェリックスの複雑な心境を知ってか知らずか、マシューの容赦ない説教がここぞとばかり続く。
「お前さんは顔がいいから女に不自由しなかったな。抱いたらポイ、でもすぐ獲物は寄ってくる」
そこまで酷い扱いはしていないと断言できない自分がいた。
「だから、もうすぐ三十になる男が本気で愛せなくなった」
しまいには、『愛』という単語がもっとも似合わない男に口から飛び出してぐうの音も出ない。短い間だが家庭を持ったマシューの言葉は重く胸を押し潰す。
好き勝手に言いやがって。
まるで自分の半生を見てきたかのような口ぶりに、フェリックスはたまらず酒を煽った。実際、マシューとは腐れ縁でほとんど寝食を共にした戦友でもあるのだ。
「お前さんはミシェルをどう思っている?」
「どうって、彼女は犬だぞ」
フェリックスの呟きは隣の席に着いた客にかき消された。マシューはふうっと大きく息を吐いて腕を組む。
「質問を替えるぞ。ミシェルをほかの男に盗られて平気か?」
「だから彼女は……」
核心をつく質問に「人間ではない」と言葉は続かなかった。お洒落をしたミシェルはとても綺麗で心が動いたのは否定できない。踊るだけで幸せだと言ったあの微笑みはまさしく人間だった。犬と人間の間で悩むミシェルに、関係ないと言い放ったのは自分ではなかったのか。お前は私の大切な家族だと。
「たいちょーさん?」
ミシェルの心配する声で、フェリックスは回想から醒めた。酔った頭でいくら考えても霧の中を彷徨うように出口が見つからない。こういう時はぐたぐた悩まず眠ってしまおう。
おもむろに立ち上がりふらついた彼をミシェルが咄嗟に支えた。二人は抱き合う形になり、ミシェルは体温の熱さをシャツ越しに感じてときめく。彼女が慌てて体を離そうとすると
えっ!?
一瞬、フェリックスが抱き締めた気がした。いや、確かに抱き締められた。そっと体を離す彼を見上げると大きな手が頭を撫でる。
いっそう犬の耳でもあればこんなに迷わないのに。
フェリックスは名残り惜しげに手を離して背を向けた。
「お休み」
「……お休みなさい」
彼の表情を窺い知れないまま、ミシェルは広い背中を見送る。
フェリックスは自分の部屋に戻るや否やベッドへ身を投げる。ミシェルが消えてしまいそうな錯覚に思わず抱き締めた。彼女は果たして気づいただろうか。




