その5
その晩、リゼットはとうとう帰ってこなかった。翌日の朝、戻ってきたかと思えば部屋でゴソゴソし始めて、キャリーバッグを引きずり出てきた。
出勤準備をするフェリックスに、「引き留めるなら今よ」みたいな空気を醸し出して通り過ぎていく。わざわざ彼がいるのを見越すあたりが未練を感じさせた。
「たいちょーさん、いいんですか?」
彼は「いいんだ」と素っ気ない。ミシェルにとって彼女は一緒に暮らした初めての他人で、女性として教わることが多く新鮮な日々だった。彼女の言動には振り回されたものの、楽しかったのは間違いない。
玄関先のリゼットは、元気な性格はなりを潜めてか細い背中が余計弱々しく見えた。自分が原因とわかっているだけに、なんと声をかけたらいいかわからず立ち尽くす。
リゼットが真っ赤な目をこちらへ向けた。泣き腫らしたのか、それとも悔しくて一睡もできなかったのか。
「フェリ様は譲るわ。幸せになりなさい」
などと殊勝な台詞はなく、「諦めたわけじゃないからね!!」と言い捨ててドアが閉まった。
彼女が去って二日後、ある人物からフェリックスの携帯電話にかかってきた。相手はショーン・バイル、リゼットの父親である。話がしたいということで、さっそく会うことになった。お互い忙しい身なので、昼休みの合間を縫って。
約束の時間になると、フェリックスは紺のスーツに着替えて隊長室を出た。待ち合わせ場所は、駅近くのホテルのラウンジだった。
入り口でそれらしき人物を捜していると、気付いたウェイターが窓際のテーブルへ案内してくれた。ロマンスグレーの男性が顔を上げて、フェリックスと目が合う。
「コールダーです。初めて」
「ショーン・バイルだ。そうか、会うのは初めてだったか」
娘から聞かされていたので初対面という気がしない、そんな風に窺えた。ショーンが座るよう促して、来たウェイターにフェリックスのコーヒーを追加する。父親はリゼットと違い穏やかな雰囲気だ。
「娘と別れたらしいな」
ショーンはコーヒーを一口飲んで切り出した。
「元々お付き合いしていませんでした」
フェリックスはきっぱりと否定すると、ショーンは驚いたように茶色の瞳を見開いて苦笑した。鋭いダークグリーンの瞳、意志の強さを表しているかのような黒い髪。強面だが悪くない顔立ちに娘が惚れたのも頷ける。
「私としては率直な人間は嫌いではない」
「恐れ入ります」
「だが、時と場合による。分かるね?」
まるで教師が生徒に諭しているような口調だ。確かに彼からしてみれば、フェリックスはまだ若いのだろうが不本意でもある。
「遅くに授かった子で甘やかしたせいか、いささかわがままかも知れない。だから、君みたいな大人が相応しいと賛成したんだよ」
『いささか』ではなく『かなり』だ。敢えて訂正はしない。娘の欠点を擁護する言葉が続き、振ったフェリックスをさりげなく非難しているようにも聞こえた。
手前味噌を並べるつもりはないが、愛らしい容姿は男なら放っておかないに違いない。彼女も自負しているのか、蝶が花から花へ蜜を求めるように一人の男性に執着しなかった。
しかし、二日前、ちょうど仕事に目途がついてわが家へ戻ってくると、リゼットがキャリーバッグを引きずって帰ってきた。しかも自信に満ちた瞳に陰りが見える。
理由を尋ねると、リゼットが堰を切ったようにこれまでの経緯をしゃべり始めた。フェリックスと親戚と聞かされていたミシェルが、実は血縁関係ではなかったこと、そして彼から別れを告げられたこと。
リゼットは一気に吐き出すと「ふう」と大きく息をついた。かわいそうな娘に慰めの言葉を探す。
「お前にはもっといい男を見つけてやる」
「フェリ様じゃないと嫌なの!!」
「別れると言われたんだろう?」
「ミシェルがいなければわたしを好きになったはずよ」
リゼットにしては珍しくフェリックスに本気だったらしい。追いすがる我が子に、どうにかしてやりたい親心が湧き上がる。少々卑怯な手を使ってもだ。
「君はリゼットと同い年の女性と暮らしているそうじゃないか」
「はい」
やはり話はミシェルに及んだが、フェリックスも想定内である。リゼットが彼女を父親にどのように伝えたか、分かり兼ねるので素直に認めた。
「隊長は部下を指導する立場にある。私生活もまた然り、示しがつかないのはまずいのではないかね」
「お言葉ですが、女性と暮らすのは初めてではありません。既知の事実です」
悪びれた様子もなく言い放つので、ショーンは呆気にとられた。その手の場数はフェリックスの方が踏んでいるようである。
「私は君の上官である本部長の友人だ。娘と別れたら出世に響くと思わないかね?」
「構いません」
ショーンが投げた卑怯なカードを、フェリックスは跳ねのけた。脳裏に浮かぶミシェルの笑顔が言葉を綴らせる。
「血の繋がりはなくてもミシェルは大切な家族です」
「しかし、世間はそう見ないだろうな」
「世間がどうであろうと、この想いに嘘はありません」
真っすぐ見据える軍人に、ショーンは心変わりしないと悟った。娘には気の毒だが諦めざるを得ないだろう。
とここで、秘書がショーンに近づき耳打ちした。
「そろそろ時間なので失礼する」
ショーンが立ち上がると、秘書がテーブルに置かれた伝票を素早く持って去っていく。彼の背中に、フェリックスも席を立ち一礼した。
フェリックスは部隊へ戻ると軍服に着替えた。スーツも悪くないが、やはり自分にはこれが性に合っている。廊下を歩いていると、さきほどの出来事を振り返った。ショーンの態度も気になるが、リゼットに恋愛感情は抱けないしミシェルを手放すつもりもない。
ミシェルは大切な家族
本当にそれだけなのか、なぜか心に引っ掛かる。
「隊長、お戻りになったんですね」
時間ぎりぎりで現れた上官に、クリスはほっとした様子だった。
「何かあったか?」
「いいえ。至って平和です。ただ、やっぱり隊長がいらっしゃらないとわが隊は締まらないので」
後頭部を掻きながら笑う部下に、ショーンの脅し文句が蘇る。本部長にミシェルとの関係を舌先三寸で吹き込めば、出世どころか隊長交代もあり得る話だ。先ほどの会話もフェリックスがいくら弁解したところで、仲のいい友人と仏頂面の部下を天秤にかけてどちらへ傾くか誰でもわかる。
元々上官に受けは悪いから悔しくはない。
「何かあったんですか?」
ほかの隊員より長く接しているせいか、クリスは些細な変化を見逃さなかった。少しそそっかしいがよく気がつく青年で、ミシェルが人間なら彼を推薦したのに。
「オレガレン少尉はいい部下だ」
「へ?」
らしくない台詞に、クリスは耳を疑った。もう一度訊き返そうかとしたが、フェリックスは背を向けて待機室へ行ってしまった。
「どうした?」
立ち尽くしていると、マシューに声を掛けられた。正しくは『どつかれた』。
「今、隊長に褒められました」
「へえ、なんて?」
「いい部下だって」
「あいつ、悪いものでも食ったか? 明日、嵐にならなきゃいいがな」
あなたが敬語を使うよりマシですよ。
クリスは心の中で毒づいた。




