その4
二人の前に不揃いの影が月明かりに照らされて伸びた。
早くから待っていたのか、しっかりと繋がれた大きい手は冷たい。じきに彼女の体温によって馴染んできた。幼いころはすっぽり隠れていた手も、今では互いの指が絡めるほどの大きさだ。
たった一日ミシェルがいないだけで思い知った存在の大きさ。独りが気楽だと思っていた日常が見事に覆された。
一緒に悩んで苦しんで笑って……、未来がどうなろうとも現在のミシェルと共に生きる。
何故、こんな簡単な答えにたどり着かなかったのだろうか。
繋いだ手に力がこもったのでミシェルが見上げた。
家族でもいい、大切な存在ならそれでも構わないとミシェルは思った。自分の居場所は彼のそばにあるのだから。
「夕食、食べましたか?」
ミシェルがそっと尋ねる。「お前は?」と訊かれて、彼女は首を横に振った。まだならどこかで済まそうとフェリックスが言うと
「少し待って頂ければ、わたしが作ります」
「気を使わなくていい」
「わたしがそうしたいんです」
「いけませんか?」とすがる上目遣いとアヒル口、彼女が幼い頃からフェリックスはこの表情に弱かった。わずかに頬が緩みミシェルの頭に手を置く。
「私もミシェルの手料理が食べたい」
「はい!!」
ささやかな甘えに、ミシェルは満面の笑みで頷いた。
自宅に帰り着くと、窓に明かりが漏れている。そして、玄関のドアは鍵がかかっていなかった。
「フェリ様、お帰りなさい」
ドアを開けると、フェリックスの予想通りリゼットが出迎えた。彼女は後ろにいるミシェルを見つけて露骨に顔をしかめる。
「ミシェルと一緒だったの?」
「た、ただいま帰りました」
控えめな挨拶に、リゼットは腕組みをして威圧的な態度で出迎えた。リゼットとの問題を解決しなければミシェルは守れない。小さく息を吐いてフェリックスが動いた。
「ミシェル、自分の部屋へ行きなさい」
有無を言わせぬ低い声に、ミシェルは素直に従った。部屋のドアが閉まるのを確認したフェリックスは、顎をしゃくってリゼットをリビングへ促す。
「ミシェル、帰ってきたのね」
「当たり前だ。ここは彼女の家だからな」
リゼットは面白くない顔でソファーに座った。
「せっかく自立するチャンスだったのに」
「やはりお前の仕業か?」
「人聞き悪いわね。わたしはきっかけを与えただけよ」
悪びれず答えるリゼットに呆れた。
「これ以上私たちに関わるな」
「そんな強気に出ていいの?」
契約のキスを思い出させるように、リゼットはまた自身の唇をなぞる。
「脅しには乗らんぞ」
「ミシェルのことがバレたら困るんじゃない?」
「困る? 私が?」
賭けだった。リゼットがどこまで知っているか把握する必要がある。だから敢えて挑発に乗った。
「だって、ミシェルと親戚って嘘でしょ?」
「は?」
「実は『犬』なんでしょう?」そんな答えを身構えていただけに拍子抜けだ。リゼットはバッグから一枚のディスクを取り出して得意げに見せつける。
「とぼけてもむだよ。ちゃんと調べているんだから」
自分でも間抜け面なのがわかるくらい唖然とした。必死に隠してきたものが、まったくの見当違いだったのだ。それも、ミシェルの正体に比べたら大したことではない事実が。
張り詰めた緊張の糸がぷつんと切れた。フェリックスの体から力が抜けて薄ら笑いが漏れる。
「それだけか?」
「え?」
まだ笑みが残るフェリックスを、リゼットは怪訝そうに見ていた。
「ミシェルと血縁関係はない。赤の他人だ」
「い、今さら開き直っても遅いわ。約束通り言うこと聞いてよね」
あっさり認めて「契約は破棄だ」ときっぱりと言い切った。
「ずいぶん強気に出るのね。わたしがパパにしゃべったらどうなるかわかってるの?」
事情はどうであれ、姪だと偽り若い女性と自宅に住まわせる状況を快く思わない者たちもいる。何かと敵が多いフェリックスだ、足を引っ張る絶好の機会を与えることになり兼ねない。
リゼットの父親と上官である本部長は古い友人で、リゼットとの見合い話を持ってきたのも彼だ。当然、本部長の耳に入ればフェリックスは追及されるに違いない。機嫌を損ねれば今後の軍人生活に支障が出るだろう。
しばらく間が空いた。リゼットの前に跪くフェリックスは観念したように見えた。所詮、男は地位や権力の前にひれ伏すしかない。
ふふふ、あなたはわたしに従うしかないのよ。
勝ち誇ったリゼットの耳に、彼の息と声がかかる。
「さよならだ、リゼット」
思い描いた結末が崩れ落ちる瞬間だった。
泣きつくかと思いきや、これまで散々否定された言葉より容赦なく胸に突き刺す。
社長令嬢で容姿もいいリゼットの二十二年間は順風満帆な人生だった。言い寄る男性と付き合って、飽きて振るのは必ずリゼットの方である。それが当然だと生きてきた彼女にとって、フェリックスの言動は許せなかった。
彼は、軍人として不利な立場よりミシェルを選んだ。リスクを冒してまで想われたことがないリゼットは妬ましく思えた。自分に靡かない男フェリックス・コールダーに怒り、羞恥、焦燥……さまざまな感情が入り乱れて唇が小刻みに震える。
「フェリックスのバカっ!! もうどうなっても知らないから!!」
リゼットはありったけの声量で怒鳴り家を飛び出した。ドアが壊れるかと思うほど激しく閉める音に、ミシェルも部屋から飛び出す。
「リゼットさん!!」
「放っておけ」
何人もの女が自分の元から去っていったが、今回は惜しいとは思わなかった。
「けんかをしたんですか!?」
「別れ話だ。いや、付き合ってもいなかったな」
冷静に訂正するフェリックスの袖を引っ張る。
「リゼットさん、本当にたいちょーさんが好きだったんですよ」
大好きな人のために、お洒落をしたり強引に迫ったり気を引こうと努力していたリゼットを知っている。方法はどうであれ、恋する女性としていじらしくもあり応援したかった。
「その気もないのに引きずる方が残酷だ」
叶わない恋に夢見るよりは、新しい出会いに向けて第一歩を踏み出す方がいい。
私も随分優しくなったものだ。
若い頃は別れた女性の今後など考えもしなかった。
一方、ミシェルの心配はリゼットが秘密を抱えたまま去ってしまったことである。
フェリックスとリゼットの間にどんなやりとりがあったか定かではないが、あの様子だと円満解決には至らなかったようだ。
「あの、たいちょーさん。お話ししたいことが……」
「その前にシャワー、浴びていいか?」
「あ、はい。その間に夕ご飯を準備します」
フェリックスは一瞬疲れた顔を見せたが、すぐ表情を戻して浴室へ向かった。ミシェルもキッチンで支度へ取り掛かる。
間もなく、シャワーを済ませたフェリックスがリビングへ現れた。テーブルに並ぶ料理は、十数分で作ったとは思えない相変わらずの出来に頬が緩む。ミシェル不在の間、何を作っても上手くいかずしまいには放棄する始末だ。
別にミシェルを家政婦呼ばわりするわけではないが、食事は美味いに限る。だが、久しぶりに二人きりの夕食はリゼットの件もあってか心躍るものでもなかった。




