その3
改めて見る『ミシェル』は確かに愛犬の面影を残していた。
「もう忘れたかと思った」
『ミシェル』が少し寂しげに首を傾ける仕草が、犬の頃と重なる。
「忘れるものか」
フェリックスはすぐ否定した。家族同様に育った彼を忘れるはずがない。聞きたいことは山ほどあるあるのに、いざ本人を目の前にして言葉が出ない。
「ミシェルとどういう繋がりだ?」
「彼女はぼくじゃない」
ようやく口を開いたフェリックスに、疑問を先読みした答えが返ってきた。
「ぼくはとても幸せだった。だから、この世に未練はなんかないよ」
「だったら何故ミシェルを寄越した!? 残酷だと思わないのか!?」
「残酷?」
「ああ。いくら人間の格好をしても彼女は犬だ。過去はない、未来は分からない、一生不安定な生き方を強いられる彼女のことを考えたのか!?」
ミシェルは悩み苦しむ姿を笑顔で隠し続けた。彼女が人間らしくなると、犬であることを自覚させるように現れた獣の耳。
『ミシェル』は琥珀色の目を細めてこちらを凝視した。まるで、フェリックスの本音を引きずり出すように挑発的に。
このくらい気付かなかったお前じゃないだろう?
彼もそう投げ掛ける。
「そうだね」とぼそり呟いて、『ミシェル』はまつ毛を伏せた。『ミシェル』が顔を上げた瞬間、上着が開けんばかりの突風が吹いた。フェリックスがはたまらず両腕で顔を覆う。
間もなく腕を下ろした視界に『ミシェル』はいなかった。
クリスは隊長室を何度も出入りを繰り返す。定時前には出勤するフェリックスがまだ来ないのだ。遅刻などこれまでない上官にやきもきする。
どうしたんだろう。行き倒れ? 迷子になったとか?
携帯電話をかけても呼び出し音の状況に焦った。自分一人では埒が明かないとマシューを呼び出す。
「俺を呼び出すとは、お前さんも出世したなあ」
「出世って、元々俺の方が階級は上です」
「そうだったな、少尉殿」
クリスの頼りない背中をバンバンと叩いた。あまりの馬鹿力によろめき、痛みがジンジンと襲う。
「ところで、何の用だ?」
「あ、そうそう。隊長がまだお見えになりません」
「電話に出ないのか?」
頼りなくてもクリスはよく気がつく男だ。あらゆる手は尽くしているに違いない。
頷くクリスに、マシューの顔色がさっと変わった。遅れるにしても連絡はあるはず、それが叶わないとしたら……。職種上、誰かしら恨みをかっている可能性は捨てきれない。いくら警衛隊長でも武装した集団に襲撃されたらひとたまりもない。
「お前さんはここで待機。俺は自宅に……」
マシューが廊下へ飛び出すと、こちらに歩いてくる人物を発見した。
「隊長!!」
クリスとマシューが血相を変えて駆け寄るので、フェリックスは目を丸くする。
「二人で出迎えか? 大袈裟なやつらだ」
「出勤が遅いから心配していたんですよ!!」
「まだ五分もあるじゃないか」
腕時計を見て暢気に言うフェリックスに、マシューは彼の服装のに乱れや汚れがないことを素早く確認して安堵の息を深く吐いた。
「何事もなくてよかった」
「十五分の道のりに何があるんだ」
『ミシェル』との再会は衝撃的だったが、動揺を悟られないように平静を装う。
たとえ話したところで誰も信じないだろう。ミシェルが本当は犬で、死んだ愛犬が人間の姿で甦り目の前にいた事実を。
だから、自身の胸だけに仕舞うしかなかった。
一晩モニカのアパートに泊まったミシェルは、彼女とともに『Dole cane』へ向かう。開店準備をして客を迎えて一日が慌ただしく過ぎていく。そして、閉店間際になるとモニカはあの件を持ち出した。
「ねえミシェル、家に帰らなくていいの?」
おもむろに振り向くミシェルは寂しげだ。
「ご迷惑ですか?」
「わたしはいいけど、隊長さんが寂しいんじゃない?」
帰りづらいなら口添えするとモニカが言ってくれるが、ミシェルは気が進まない。果たして自分がいなくて寂しいだろうか、疑問が残る。
結局、今夜もモニカの所で世話になることで落ち着き、二人で店を出た時だった。近くの外灯に照らされた人物にミシェルは固まった。
「……たいちょーさん」
部隊から真っすぐここへ来たのか、軍服のフェリックスが二人に歩み寄る。
「コールダー隊長、ずっと待っていらしたんですか?」
「ミシェルが世話になった」
「えっと……、今夜も世話しようかと思っているんですけど」
モニカがさりげなく提案すると、フェリックスが彼女の背に隠れるミシェルの腕を掴んだ。「あっ」と声を上げて彼のそばへ引き寄せられる。
「帰るぞ」
「でも……」
「荷物があるのか?」
フェリックスが尋ねると、モニカが肩を竦めた。
「いいえ。身一つで来たものですから」
「なら結構」
モニカに軍人らしい一礼をして、ミシェルに帰るよう促す。すがる目のミシェルに、モニカは苦笑して手を振るのだった。
『Dole cane』が見えなくなった頃、ミシェルは観念してとぼとぼとフェリックスについていく。たった一日なのに、彼の背中がとてつもなく広く感じた。
しばらく会話もなく歩いて並木道へと差し掛かる。通勤時間のラッシュが過ぎて人通りもまばらだ。フェリックスの軍靴が高らかにリズムを刻み、ミシェルの足音があとに続く。
「家出した感想はどうだ」
正面を向いたまま彼が訊いた。久しぶりに聞く低い声がやけに胸に響き、いつもならすんなりこぼれる「ごめんなさい」の言葉が喉の奥に貼り付いて出てこない。
足が止まり彼が振り向いて目が合った。
「ご飯……どうしていましたか?」
「先に訊いたのは私だ」
ぴしゃりと言い返されてミシェルが俯く。
フェリックスも彼女を追い詰めるつもりはないのだが、今朝の『ミシェル』との出会いが思いのほか引きずっていた。
ミシェルがどのようなつもりでフェリックスの元へ来たのか理解できない。命の恩人と言っていたが、それだけの理由で人生を掛けてまでフェリックスに尽くせるのか。
『ミシェル』と別れてからいろいろと考えた。なぜ非現実的な事実を受け入れる気になったのか。すべてが仕組まれているとしたら……。
フェリックスはミシェルの目を見つめた。真っすぐで純粋なそれに嘘はない。彼女がどこから来てどんな過去を持っていても関係ない。今まで一緒に暮らしてきた時間がすべてだ。
そう結論が出ると少し気が軽くなった。
「お前の意思は尊重したい。だがな、やはり不安だ。大切な家族だからな」
ミシェルがおもむろに見上げた。
「一人くらい養えるしリゼットも任せてほしい」
「でも、リゼットさんは……」
リゼットさんはわたしの正体を知ってます。だから、このまま一緒にいたらたいちょーさんに迷惑がかかっちゃいます。
心のうちに秘めるだけで口に出せなかった。
「もう少し一緒にいよう。お前が一人でも生きていける時まで」
フェリックスが手を差し伸べると、ミシェルの瞳が涙で潤む。強面だけどかっこよくて優しくて、困ったときに手を差し伸べてくれるこの人が大好きだ。
「帰ろう」
「はい!!」
ミシェルは駆け寄り彼の手を握り締めた。




