その1
「急になんだ!?」フェリックスはそんな風に言いたげな顔だった。彼としてはまさに青天の霹靂で、突然の申し出に心当たりがあるとしたら恐らく……。
「リゼットに何か言われたのか」
ミシェルは一瞬固まって慌てて首を横に振った。
「リゼットさんは関係ありません」
「だったらどうして」
「わたしも見た目は大人ですし、お給料をもらっているので一人でやっていけるかと思います」
「住む所はどうする?」
「どこか借ります」
「お前は知らないだろうが、家を借りるには手続きがいる」
フェリックスが人間社会の仕組みを説くうちに、ミシェルの瞳は次第に潤んでいく。無理もない。彼女を犬だと自覚させているようなもので、少々酷だが仕方がないことだ。
溢れる涙を必死に堪える姿に、フェリックスの心はぎゅっと締めつけられる。
「もし、たいちょーさんが結婚したら気まずくなります」
「するつもりはない」
「でも、カノジョさんができたら……」
「今はいない」
きっぱり言い切るフェリックスに、ミシェルは素直に受け取れない。なぜなら、リゼットとの会話を聞いてしまったから。
「とにかく、一人で暮らそうなんて馬鹿な考えはよせ」
ミシェルなりに一生懸命悩んで出した結論を馬鹿呼ばわれして、彼女の心の中で何かが切れた。
「やってみなきゃわからないじゃないですか!!」
声を荒げるミシェルに、フェリックスは驚いて目を見開く。
「お二人の仲を邪魔するつもりはありません!!」
「邪魔も何もそういう仲じゃない」
「人は、そういう仲じゃないのにキ、キ、キ、キ……キスするんですか!?」
『キス』という単語が恥ずかしくて、どもりながら言うミシェルの顔からは湯気が出るほど真っ赤だった。
やっぱり聞いていたんだな。
動揺したフェリックスに、ミシェルは慌てて付け足した。
「偶然聞こえたんです。断して盗み聞きじゃありませんから」
そう、あれは不可抗力である。ドア一枚隔てているだけなので、聞きたくなくても耳に飛び込んでくるというものだ。
「一体なんの騒ぎ?」
キッチンから聞こえるひと悶着に。迷惑そうなリゼットがやってきた。まさに渦中の人物が現れたので、フェリックスの苛立ちも最高潮に達する。
「だいたいお前のせいで!!」
「えっ!? いきなり何よ!?」
来た早々怒りの矛先を向けられたリゼットに、またもやミシェルが大声で諌めた。
「リゼットさんを怒らないで下さい!!」
「ミシェル、お前!!」
リゼットを庇う彼女の真意が理解できず、フェリックスはつい怒鳴ってしまった。
「もっとわがままを言えと仰ったのはたいちょーさんですよ!! だから、わたしは決めました!!」
これ以上いたら、きっと彼に心にもない酷いことを言ってしまう。いたたまれないミシェルはキッチンを足早に離れて自分の部屋へ入っていった。食器を拭いていたタオルをテーブルに投げつけたフェリックスもまた自分の部屋へ入っていく。不意の嵐に巻き込まれたリゼットはぽかんと口を開けていた。
翌朝、フェリックスが起きてくるとキッチンにミシェルの姿はなかった。その代り、テーブルには二人分の朝食が用意されている。
昨夜、ミシェルと独り暮らしするしないで揉めたので気まずいのは彼も一緒だ。朝早く出掛けようかとも考えたが、このままにしておけない気がした。ミシェルの部屋の前に来ると大きく息を吐きノックする。
「ミシェル、起きているか?」
耳を澄ましたが返事はなかった。「入るぞ」と声を掛けてドアを開けると、ベッドで背を向けて寝るミシェルが見えた。
「昨夜のことだが、帰ってきたら話し合おう」
起きている気配は感じ取っているが、敢えてそっとしておいた。
「なるべく早く帰ってくる」
少し間が空きドアが閉じる音がした。彼の気配が消えたのを確認したミシェルはそっとドアの方へ寝返りを打つ。
昨夜はなぜあんなに感情的になったのかミシェル自身わからなかった。キスしたのは事実なのに言い訳するフェリックスが許せなかったのか、それともこちらの意思を尊重してくれないのが許せなかったのか。
どちらにせよ、今までフェリックスがしてくれたことを思い起こすと、とても贅沢で罰当たりな考えである。
気は重いしやる気がないが、バイトを休むわけにはいかない。ミシェルは渋る体を奮い立たせてドッグカフェで仕事をする。
「はあ……」
「なあに、また悩み事?」
ここ最近のミシェルはため息ばかりで、モニカの口調も呆れ気味だ。
「実はたいちょーさんとケンカしちゃって……」
「へえ!! あんなに仲いいのに。それで原因は?」
「独り暮らしをしたいと言ったら反対されました」
「何か不満でもあったの?」
ミシェルはリゼットのことなど、これまでの経緯を話し始めた。モニカはモップの柄に顎を乗せて、時々相槌を打ちながら聞いている。
「つまり、コールダー隊長の許嫁と三人で暮らしているわけ?」
「はい」
「目の前でイチャイチャされたら居づらいわよね」
ミシェルはこくりと頷いた。もし、フェリックスとリゼットのキス現場を目撃したら平穏ではいられないだろう。最悪の場合、犬耳が飛び出して元に戻らないかもしれない。
モニカは、項垂れるミシェルを気の毒そうに見つめた。少し過保護すぎる気もするが、複雑な事情を抱えているようなので心配するのもわかる。
結局、解決することもなく慌ただしく開店を迎えるのだった。
「一段と怖い顔してんな。さてはお嬢ちゃんとやり合ったか?」
姿を見ずともわかるマシューの声に、フェリックスは視線を書類に向けている。『お嬢ちゃん』とはミシェルとリゼット、どちらを指しているのか問う気もないが。
「おいおい、せっかく心配してやってんのに無視かよ」
ここでようやくフェリックスが迷惑そうに顔を上げた。
「忙しいから話しかけないでくれ」
「ただ書類を見ているだけじゃねえか」
「羨ましいなら代わってもいいぞ」
「わかった、わかった。お前さんは立派な隊長殿だ」
代わることなど立場上無理で、代わったところでマシューに出来るわけがない。最初から分かりきったことをさらりと言う、こういうところがマシューは気に食わないのだ。
「こじれる前にさっさと謝った方がいいぜ」
そんなことは百も承知だ。
だから早く帰ってミシェルと話し合おうと、いつもより倍のスピードで仕事をこなしている。
邪魔しているのはお前の方だ。
壁のような広い背中に、フェリックスは忌々しい視線を投げつけるのだった。
定時より少し遅く帰り着いたフェリックスだが、自宅の異変に気づいた。部屋の電気がついていないのだ。カーテンをしていたとしても、わずかに灯りは漏れるはずである。
鍵を開けると、玄関は真っ暗で出迎える者もいない。キッチンで料理を作って気付かないかもしれない。そう思ってリビングへ向かったがやはり誰もいなかった。
買い物へ行っているのか、はたまたバイトが長引いているのか。
リゼットはというと、ケンカの原因は自分だと自覚があるらしく、『今夜は友達の家に泊まる』というメールをよこしてきた。
かなり待ったフェリックスが腕時計を見た。時刻は八時、まだミシェルは帰ってこない。




