その7
この日は朝から黒く厚い雲が空を覆いどんよりとしていた。ポツポツと降る程度だった雨も次第に強さを増して風と共に荒れ狂う。
夕方の警らから戻って来た隊員達は、雨衣を着ていたとは思えないほどびしょ濡れだった。
「ひえー!! 凄い風だったぜ」
「台風並みだぞ」
「まったく、やってられんな」
彼等が口々に愚痴るのを聞いて、フェリックスも雨が激しく叩きつける窓に目を向ける。そして、視線をデスクの上に置いてある固定電話に移した。
ミシェルは大丈夫だろうか。
それは今朝の出来事だった。
『非常に発達した低気圧は、今日の昼頃から強い雨風を伴い……』
テレビから流れる天気予報をミシェルが不安げに見てこう言った。
「家、壊れませんか?」
「それはないが、最低限の備えは必要だろうな」
「帰りは遅くなりそうですか?」
「なるべく早めに帰る」
ミシェルの頭を撫でたが、いつもの嬉々とした反応がなく項垂れていた。
「怖いのか?」
「い、いいえ。大丈夫です」と、小刻みに震えながら笑顔を作る彼女を壁に設置されたパネルの前に連れていく。
「赤く光っているボタンを押せば警衛隊に繋がる。私と連絡が取れるようにしておくから遠慮せず掛けなさい」
「それじゃ、お仕事の邪魔になるのでは?」
気掛かりを残して任務に集中できないよりは、中断されてもミシェルの状態が分かる方が断然いい。
「優秀な部下に任せればいいことだ。心配するな」
頷いてみせたその彼女から未だ連絡がなかった。
その頃、ミシェルは恐怖と孤独に必死で耐えていた。時間が経つにつれて強風と雨でガタガタと窓ガラスを揺れ始めると、カーテンを閉めてソファーに蹲る。
大好きな歌を大声で唄えば少しでも気が紛れるかと思ったが、眩い稲光と轟く雷鳴にたまらず悲鳴を上げた。
これまでで一番激しい雷に突如辺りが真っ暗になってミシェルは慌てた。
確か、この辺にあったよね?
テーブルの上をまさぐるも、フェリックスが用意してくれた懐中電灯がなかなか見つからない。ソファーに飛び乗る際にテーブルにぶつかり床へ落ちたのに気付かなかったのだ。
闇の中で蘇るのは野良犬だった頃の記憶だった。
生まれた時から独りで人の目につかないようにひっそりと暮らしていた。暑い日は喉を潤すために水を求め、寒い日は北風が吹かない場所をさすらう。
真っ暗な路地を歩き回り疲れて眠る日々。
フェリックスと出会ってからの生活が幸せ過ぎて、自身が犬だということを自覚すると切なく遠吠えする。
「アオーンッ!!」
ミシェルはすがる思いで、ほのかに灯る赤いパネルへと駆け寄った。
部隊を含む一帯は落雷による停電で光を失った。予備電源に切り替った部隊では動きが慌ただしくなる。
フェリックスも各部署から続々と入る報告の対処に追われた。
「気象隊から災害レベル1から2へ引き上げの通達です」
「正門以外のゲートを全て封鎖。第一班から第五班は基地警備の強化」
マニュアルはあるが、それをいかに冷静かつ的確に対処できるかで指揮者の力量が問われる。他の部下には冷静に映っている上官だが、マシューは不安に揺れる心情を見抜いていた。
「何か心配事でもあるのか?」
不意に訊かれて、フェリックスは素直に胸の内を明かす。
「ミシェルに直通の回線を教えているが連絡がない」
「家の中にいるんだろう? なら、安心じゃねえか」
「今朝、妙に怖がっていたのが気になる」
「だったら様子を見に行ったらどうだ? 巡回ってことにしとけばいい」
フェリックスの答えを待たずにクリスを呼びつけた。
「オレガレン少尉、隊長殿は巡回するから指示は副隊長に仰げ」
状況を把握するために席を外すのは珍しいことではないので、クリスは言われた通りに事を進める。
相変わらず即決即断の男だと呆れたが今は甘えることにした。椅子から立ち上がり雨衣を手に取ると、マシューが「貸しとくぜ」と似合わないウインクをした。
フェリックスは警衛隊の車に乗り込みゲートを出た。ワイパーを最速にしても途切れることのない雨に慎重に運転して自宅へ向かう。
なぜ連絡してこない!? あれほど遠慮するなと言っておいたのに!!
こんなに苛立ったことは久しぶりだ。そして、こんなに不安になったことも。
自宅の前に着くとまだ電気は復旧しておらず辺りは暗闇に包まれていた。
「ミシェル!!」
玄関のドアを開けるや否や叫んだが返事がない。懐中電灯の明かりを頼りにリビングへ進んでいくと、ソファーに蹲る人影を見つけた。
クッションを頭から被り一切の音を遮断していた彼女は気付かない。肩に手を置くと、ビクッと体が跳ねて赤く泣き腫れた瞳を向けた。
「たいちょ……さん?」
「ああ。大丈夫か?」
ミシェルの瞳が彼を捉えると勢いよく抱きついた。どんなにしっかりしていても、どんなに強がっていてもミシェルはまだ幼い。初めて見せた子どもらしい姿に痛感したフェリックスは力強く抱き締めた。
この子を守ってやりたい。
突如湧き上がる感情に戸惑いつつ、胸で泣きじゃくる彼女の髪をいつまでも撫でてやった。
たいちょーさんが来てくれた。
ミシェルは涙でぼやける視界や抱き締められた息苦しさも構わず身を任せた。雨のなか駆けつけせいか、大きな手と軍服は冷たかったが心はポカポカと温かい。
しばらくして、電気が復旧したようでリビングに灯りがともった。
腕の中にはまだ涙が乾かないミシェルの寝顔がある。泣き疲れたのと安堵感が彼女を眠りに就かせたのだ。
立ち上がろうとしたフェリックスだが、引っ張られる感覚に振り向くとしっかりと裾を握り締めている小さな手がある。
よほど怖かったのか解こうともせず、そのままミシェルを抱き上げて寝室へ連れていった。
フェリックスはミシェルが寝つくまで傍らで待って、眠りに就いたのを確認して部隊へと戻ることにした。家にいたのは一時間も満たなかったが、二人にとっては長い嵐の夜だった。
車に乗り込んで家の方を振り返る。ミシェルのことを考えると後ろ髪を引かれるが、隊長自ら任務を放り投げる訳にはいかないのだ。
寂しい思いをさせるくらいなら、引き留めなければよかったのに。そう言われても仕方がない状況に苦笑した。
ミシェルが目覚めると、嵐が過ぎ去り眩しほどの朝陽が部屋へ差し込んでいる。いつの間にか自分のベッドに寝ていたので一瞬茫然とした。
そういえば……と、記憶の糸を辿ると黒髪の軍人が浮かぶ。
「たいちょーさん?」
辺りを見回してもフェリックスの姿がなく、恐怖のあまり夢でも見たのかと肩を落とした。
リビングへ行ってみると、テーブルの上に準備された朝食に夢ではなかったと確信する。
《おはよう。今夜は早く帰れそうだ》
小さなメモ紙に短いメッセージ。
だが、ミシェルを安心させるには充分だった。恐らく、勤務の合間を縫って様子を見に来てくれたのだろう。
牛乳をレンジで温めて、ハムや野菜を挟んだロールパンを頬張った。ここの主は、顔は怖いが意外と栄養バランスや見た目にこだわる。
「美味しい」
思わずミシェルの口からこぼれた。