その11
この日のシェルはため息をつかずにはいられなかった。マシューが「ため息をつくと幸せが逃げていく」と言っていた。常にフェリックス《幸福》がいるとはいえ、少々無駄遣いが過ぎるかもしれない。
原因はリゼットの一言にある。ミシェルに秘密があるのではないかという発言に、それは「気のせいです」と一蹴するにはあまりにも確信めいていた。かといって詳しく訊こうとすると、彼女は自分の勘違いだったと相手にしてくれない。
こんな時はいつもフェリックスが助けてくれるのだが、押し掛けてきた自分が蒔いた種だ。そうもいかない。
そして、もう一つため息の理由は昨夜にあった。
玄関のドアが開く音がして、出迎えたミシェルは目の前の光景に「お帰りなさい」の言葉を飲みこんだ。フェリックスとリゼット、腕を組んで二人一緒の姿にひどく動揺して声がうわずる。
「お帰りなさい。ご一緒だったんですね」
「ふふふ、デートってやつ?」
ふと見せたミシェルの寂しげな顔に、フェリックスは組まれた腕を振り払って成り行きを説明した。
「ほんの数メートル歩いただけだ。しかもその先で」
「短い距離だったけど愛が深まったって感じでしょ?」
「『溝が深まった』の間違いだろ」
「またぁ、照れちゃって」
「さっさと家に入れ」
「はーい」
二人の会話を聞きながら、ミシェルは重い気持ちでついていく。顔を合わせれば減らず口に憎まれ口の彼らでもやはりお似合いだと思う。
なんといっても、リゼットはかわいい人間の女性だ。フェリックスのお相手として、ミシェルと天秤にかけるまでもない。その都度、どんなに人間の姿を偽っても報われない恋だと思い知らされる。それどころか、リゼットに自分の正体が知れて悪化の一途を辿っている。
このままじゃ、たいちょーさんに迷惑掛けちゃう……。
恋愛うんぬんを語る前に片付ける問題は山済みだった。
ミシェルは気分転換に部屋の掃除をすることにした。体を動かさないと、どんどん悪い方向に考えてしまう。それにバイトを始めてから念入りにすることも少なくなった。髪を一つに束ねて気持ちを入れ替えるとエプロンを身に付けた。
午前中に浴室やトイレを済ませると、午後から各部屋に取り掛かる。リゼットは少しでも物の位置が変わると怒るので、掃除する時はなるべく元あった場所へ忠実に再現しなければならない。おまけにアクセサリーや化粧品など細々としたものが多いので大変だ。
リビングを掃除していたら夕方近くになっていたので、次はキッチンへ向かう。買い物に行く暇がなかったので、家にあった食材をかき集めてビーフストロガノフを作ることにした。
「ミシェルに余計なことを言っていないだろうな?」
「余計なことって?」
ミシェルは、廊下から聞こえる男女の声で目が覚めた。自分の部屋でほんの少し休憩するつもりがすっかり寝入ってしまったらしい。
「とにかく約束は守ってもらう」
「あのキスで? 短すぎてとっくに有効期限がきれているわ」
えっ!?
ミシェルは耳を疑った。約束が何かよりもフェリックスとリゼットの間に何があったかだ。話の内容からすれば、二人は一度でもキスをしたことになる。
二人は、ミシェルがすぐそばにいるのに気付かず会話を続けた。
「いい加減にしろ。あの程度で充分だ」
フェリックスの声が苛立っている。
「やっぱりぃ~、キスは男の人からしてくれないとぉ~」
リゼットの鼻に掛かった甘ったるい声。
「だったら、そんな男を選べばいい」
「フェリ様じゃないと意味がないの」
「断る」
「約束を守るかどうかはあなた次第よ、コールダー隊長?」
断片的な内容で詳しい事情は分からない。二人の沈黙に、ミシェルがドアに聞き耳を立てようとした時だった。
ガチャッ。
寄り掛かり過ぎてドアが開いてしまい、居合わせた三人は固まった。
「ミシェル、いたのか!? 返事がないからいないのかと」
まさかいるとは思わなかったのか、フェリックスは罰悪そうな顔をした。
「お帰りなさい。お昼寝してたら寝過ごしちゃいました」
てへへと舌を出したミシェルに、「今の話……」と言い掛けてフェリックスは口を噤む。
「ご飯の支度、しますね」
するりと彼の横を通り過ぎてキッチンへ行く。フェリックスの視線を背中が感じるも振り向かず。
バレてない……よね?
あのダークグリーンの瞳に見つめられたら嘘はつけない。今のやり取りを一部始終聞いて動揺していると知ったら、きっとフェリックスは心配するだろう。心配して悩んで……それだけは絶対だめだ。
「ひょっとして、今の話聞いてたかしら」
悪びれた様子もなくリゼットはのんきなものだった。
「ミシェルも年頃なんだし気にしていないと思うわ」
「お前と一緒にするな」
「もしかしたら、どこぞの誰かさんとキスしてたりして」
フェリックスに物凄い形相で睨まれたリゼットは肩を竦めた。
「ミシェルって意外とモテるのよ。ドッグカフェでも彼女目当ての客が増えたっていうし、部下の中にも狙っている人がいるんじゃない?」
この台詞に、咄嗟に脳裏に浮かんだのは金髪の青年だった。クリス・オレガレン、確かに歳も近いし仲もいい。仲がいいというならもう一人、大男がいるがこちらは論外だ。いささかせっかちだが性格は明るく、なにより気配りができるまめな男だ。
と、ここで着信音が聞こえたので出てみるとクリスだった。狙いすませたような登場に悪意すら感じる。
「どうした」
『ちょっとこみいった話になりますが、お時間よろしいでしょうか?』
「ああ」
『実はですね……』
仕事の話だと分かると、リゼットはフェリックスの元を離れてリビングへ向かった。キッチンでは、ミシェルが鍋を温め直している。
「ねえ、ミシェル。さっきの話、本当は聞いていたんでしょ?」
閉める鍋のふたがガチャンと音を立てた。
「い、いいえ。本当にぐっすり寝ていたんです。今夜、眠れるかな?」
ミシェルは、お玉でミートストロガノフをぐるぐるとかき回す。
「別にいいんだけどね。とにかく、わたしとフェリ様はそういう関係なのでよろしく」
よろしくと言われても、すぐには納得できない。二人は既に恋人同士だというのか。だったら、自分の居場所はここにはない。
「このままだと彼に迷惑が掛かるんじゃない?」
ミシェルは心の中を覗かれているみたいでドキッとした。リゼットの言いたいことがミシェルは何となくわかっている。周りにいる人達に、自分が犬と知れたらフェリックスの立場がどうなるか。そうなる前に彼の元から離れてくれと言っているのだ。
そして、フェリックスと結ばれるのは人間であるリゼットなのだと。
「また余計なこと言っちゃった。フェリ様に怒られるから黙っててね?」
ミシェルの返事も待たず、ソファーに座るとファッション誌をパラパラとめくり始めた。
たいちょーさん、わたしがいたら迷惑なのかな。
不安の火は胸の中でくすぶり続けた。
夕食後、片づけを手伝うフェリックスがミシェルの横に来た。
「ミシェル」
「はい」
「何言われても気にするな」
「……はい」
短い沈黙のあとに、ミシェルが口を開く。
「たいちょーさん。わたし、一人で暮らしたらだめですか?」




