その9
今朝のフェリックスはすこぶる機嫌が悪かった。元々笑顔を振りまくタイプではないが、仏頂面に怒りが加わって非常に表情が怖い。ミシェルは感情を刺激しないように、酸味が弱いコーヒーを淹れて彼に差し出した。
一方、リゼットは見るからに上機嫌で食卓に着く。どういう風の吹きまわしか、最近は早起きして三人で朝食を取ることが多くなった。
「おはよう、ミシェル」
「りゼットさん、おはようございます」
「おはよう、フェリ様」
「……おはよう」
遅れること数秒、フェリックスが低い声で挨拶する。明らかにリゼットに敵意剥き出しで、理由が知りたいがとても聞ける雰囲気ではなかった。
会話もない殺伐した食事の途中、リゼットが切り出す。
「フェリ様、今度の休みなんだけど友達に会うから送ってくれない?」
「なんで俺が?」と言わんばかりにフェリックスが不満げな視線を投げると、リゼットは自身の唇を人差し指でなぞり含み笑いをした。「言うこと聞かないと、あのことしゃべるわよ」そんな脅迫じみた仕草に彼の片眉が跳ねる。ミシェルの正体が知れたことと不覚にも唇を奪われたことが、フェリックスに選択肢を与えなかった。
「……何時だ」
「朝の十時ごろよ。助かるぅ」
「ミシェルも行くか?」
フェリックスが尋ねると、ミシェルが返事するよりも早くリゼットが横から口を挟んだ。
「その日はバイトがあるのよね?」
予定はなかったが、彼女の気迫に負けて『ない』とは言い出せず頷いてしまった。リゼットはこれ見よがしにフェリックスの隣に座って勝手に計画を立てていく。ランチにショッピング……、放っておけば丸一日拘束されかねないスケジュールに、フェリックスはうんざりしながら聞くしかなかった。
フェリックスが出勤すると、ミシェルは洗濯に取り掛かる。食器は彼が洗ってくれていたので助かった。
「フェリ様、わたしのことなんか言ってた?」
洗濯機のボタンを押すと同時に、リゼットが洗面所の鏡で髪をセットしながら訊いた。
「いいえ」
「そう」
ミシェルは今朝の様子を思い出した。フェリックスの機嫌が悪い原因は恐らくリゼットなのに、彼女を送っていく約束をした。まるでデートみたいな計画も受け入れた。
「あの、何かあったんですか?」
「どうして?」
「今朝、たいちょーさんの様子が変だったから」
鏡越しに二人の目が合ったが、リゼットは無言で髪のセットに没頭し始めた。ミシェルは仕方なくフェリックスの部屋へ移動した。
一番最初に掃除をするのは彼の部屋で念入りにしている。この場所で過ごす時間が長いので、気持ち良く過ごしてほしいからである。
部屋に入るとベッドの上に雑に畳んだ服が置いてあった。以前は脱ぎっ放しだったが、ミシェルが来てから一応畳むようにしている。凛々しい軍服姿から想像つかないが案外だらしない。
机の上はなるべく片付けないよう言われていた。傍からは散らかって見えても本人は把握しているので、触られると場所が分からなくなるらしい。
ひと段落ついたミシェルは、椅子に座ると背もたれに体を預けて窓の景色を眺めた。フェリックスと同じ行動をすることで存在を近くに感じる。
たいちょーさん、わたしのことどう思っているのかな……。
頭に違和感を覚えて、窓に映った自身に深いため息をついた。フェリックスを想うと戒めるように現れる犬耳。
机にうつ伏せてまたため息をついた。まるで、日ごとに募る彼への想いを吐き出すかのように。
ドアを開けると、目の前に立っていた人影にぎょっとした。
「リゼットさん!?」
「掃除、終わった?」
「あ、はい」
「紅茶、淹れてくれる?」
フェリックスがこの場にいたら「自分で淹れろ」ときつく窘められるところだ。ミシェルは無意識に手を頭に乗せた。犬耳対策で、エプロンのポケットにバンダナを常備していたのが幸いした。
だが、ミシェルの心配はほかにもある。近づくリゼットの足音に気づかなかったのだ。そして、換気のためドアを少し開けていた。
もしかして犬耳、見られた!?
ミシェルの心臓の早打ちが止まらない。
「あ、あの……、いつからそこにいらしたんですか?」
恐る恐る尋ねると、リゼットが「ついさっきよ」と答えた。少し安堵したところで
「ねえ、フェリ様を譲ってくれない?」
とんでもない爆弾にミシェルは固まった。
「伯父さんなんだから譲るも何もないわよね」
世間体では親戚だが事実は違う。いろいろな思いが頭に浮かんで言葉にならない。そんな反応を楽しむかのようにリゼットの瞳が挑戦的なものになった。
「わたし、いろんな男の人を見てきたけど今いち。だからフェリ様を紹介されたとき運命を感じたの」
運命ならミシェルもあの雨の日に感じていた。
「野性的で胸に秘めているっていうのかしら」
フェリックスを思い浮かべているのか、リゼットは恍惚の表情で語り始める。
「男は秘密めいた方が素敵だと思わない?」
ミシェルは合点がいかず「はあ」と曖昧に返した。フェリックスのほかに親しい人間の男といえば、マシュー、クリスだけであの二人にどんな秘密があるか知る由もない。
ミシェルが難しい顔で必死に考えていると
「あなたにも秘密があるんじゃなくて?」
不意に聞こえてきた台詞に、ミシェルの心臓は一瞬だけ止まった気がした。ぎこちなく振り向くミシェルの顔は硬直していた。
「わ、わたしに秘密なんてありません」
やはりドアの隙間から見たのだろうか。だとしたら非常にまずいことになる。とぼけてみたがリゼットには見透かされているようだった。
「そう? じゃあ、わたしの勘違いかもね」
「どんな勘違いですか? よかったら聞かせてください」
「だから、勘違いよ。変なこと言って悪かったわ」
「リゼットさん!!」
必死に食い下がるミシェルに、髪のセットを終えた彼女がくるりと身を翻して部屋へ戻っていく。慌てて追い掛けたが、寸前でドアを閉められてしまった。
頭が真っ白になり、いきなり無人島に放り出されたような絶望感に襲われた。
取り敢えずバイトに来たミシェルだが、すべてがうわの空だった。注文を間違えたり食器を落としそうになったり、彼女らしからぬ失敗にモニカが首を傾げる。
「今日のあなた変よ。具合が悪いの?」
「ぼんやりしてごめんなさい」
「平気ならいいんだけど悩み事? 話してすっきりするならわたし聞くわよ」
すっきりしたいが、「わたしが犬ということがリゼットさんにバレちゃって困ってます」なんて話せるはずがない。ミシェルは口を堅く結んで俯いてしまった。彼女が沈んでいると、客だけでなくペットの犬達もどこか元気がない。店内の雰囲気が次第に暗くなっていくのだ。現に数人の客から心配の声があがっている。
「ありがとうございます。でも、今は言えません」
「無理に訊くつもりはないから安心して」
複雑な身の上らしいので深くは詮索できない。「はい」と小さく笑って
「ミシェルちゃん、どうしたのかしら?」
「元気ないけど、疲れているんじゃない?」
「ひょっとして恋の悩み?」
注文を取る先々で呼び留められて、モニカは対応に追われるのだった。




