その8
フェリックスは夢を見た。
実家で飼っていたゴールデンレトリバーで、名前は『ミシェル』。陽の光を浴びると、体毛がカスタードクリームみたいな色の犬だ。とても利発で、休日はよく公園でフリスビーを投げてはキャッチさせて遊んだものである。学校へ行くときは家の門まで見送り、帰ってくるときは彼めがけて一目散に駆けてくる姿が愛おしかった。
士官学校へ行く朝は、琥珀色の瞳で寂しそうに見つめていた。大切な家族だったのに、ミシェルの最期すら看取れなかったことを未だに後悔している。
夢の中では、その気持ちを打ち消すように愛犬と戯れた。フェリックスが投げたフリスビーをミシェルが一心不乱に追いかける。次第に遠くなる姿に不安を掻き立てられて、何度も呼び寄せたがミシェルはついに帰ってはこなかった。
目覚ましのアラームが鳴り、フェリックスは夢から現実に引き戻された。実にいいタイミングだと思った。あのまま見続けていたら涙を流していたかもしれない。
おもむろに起きて、リビングへ行くとキッチンで慌ただしく動くミシェルがいた。料理をしている彼女を見て、なぜ今になってあの夢を見たのか分かった気がした。
それは昨日のことである。
フェリックスが自室で仕事をしていると、雨粒が窓ガラスを叩く音に顔を上げた。天気予報では晴れだと言っていたのに、近頃はあてにならない。
そう言えば、ミシェルは買い物へ出掛けてたままだ。急な雨でさぞ困っているだろう。いや、彼女のことだから雨の匂いを感じて傘を持って行ったかもしれない。玄関に行って確認すると赤い傘は置いてけぼりだ。
迎えに行こうとノブに手を掛けたら、向こうから勢いよくドアが開いた。鉢合わせたのはびしょ濡れミシェルで、風邪を引いたら大変とフェリックスは急いでタオルを取りに行く。
「急に降ってきちゃいました」
ミシェルのくぐもった声が、頭を拭くタオル越しに聞こえた。白いタオルから覗いた琥珀色の瞳がもう一人の『ミシェル』と重なる。
彼女に愛犬の名前を付けて、一体この先どうするつもりだったのだろうか。想いを共用したかったか、それともただの自己満足なのか。
ミシェルの小さなくしゃみで、フェリックスは我に返った。ミシェルに浴室へ行くよう促して、そのあいだ温かいココアを準備する。秋雨に打たれて、きっと体が冷えているだろう。
「あ、フェリ様。わたしのも淹れてもらえる?」
いつの間にかリゼットは雑誌を広げてソファーに座っていた。家事を手伝う気がない彼女を忌々しく睨みながら、自分の分だけコーヒーをカップに注ぐ。
りゼットは悪態をつくのかと思いきや、意外にも文句ひとつ言わず自分のを淹れ始めた。最近のリゼットは妙に素直なので気味が悪い。
二人は向かい合ってテーブルに着くと、コーヒーの湯気越しにリゼットがじっと見つめている。
「なんだ」
「結婚したらこんな感じかしら」
「したことないからわからんな」
「フェリ様って結婚願望ないの?」
「ない」と言い捨てて、フェリックスはカップに口をつける。周囲からは「そろそろ……」と様子を窺ってくるが、彼自身まったくその気がない。というか、添い遂げたい相手がいないのだ。
「まさか、ミシェルのためにしないつもり?」
「彼女は関係ない」
「とか言っちゃって、どうなんだか」
やけに含みのある言い方だった。さらに彼女は続ける。
「ねえ、ミシェルって一体何者なの?」
その言葉に彼の心臓が大きく跳ねた。
「どういう意味だ」
「わたし、見ちゃったのよね」
「見たって何を?」
自分でも鼓動が速くなるのを感じる。フェリックスが問い正そうとしたら、ミシェルがちょうど浴室から出てきたので結局聞けず仕舞いになったのだった。
回想に更けていると、ミシェルが盛り付けする手を留めて振り返った。
「たいちょーさん、おはようございます」
「おはよう」
ミシェルが顔を覗きこんだので、フェリックスはわずかに体を反らした。近頃妙に照れ臭い。
「昨夜、遅くまでお仕事してたんですか?」
「いや。なぜ?」
「目が真っ赤です」
まだ夢の余韻が残っていたのか、ミシェルの鋭い指摘に背を向けてコーヒーを飲んだ。ふとテーブルに目をやると、食器が二人分しか用意していない。視線に気づいたミシェルが説明した。
「リゼットさんは、用事があるのでたった今出かけました」
逃げたな。勘のいい奴だ。
おそらく、夕べの会話を問い詰められると察知して先手を打ったのだろう。一体、ミシェルの何を見たというのか。
「ほかに何か言っていなかったか?」
「遅くなるから晩ご飯はいらないそうです」
「いっそう、帰ってこなければいいのだが」
「またそんなことを。ダメですよ」
ミシェルを思って言ったのに、逆に窘められてフェリックスは憮然とした。クリスといいリゼットといい、ミシェルを取り巻く状況が変化しているのを感じずにはいられなかった。
その後もリゼットはのらりくらりと交わし続けた。しかも、家にいる時は常にミシェルのそばにいて、二人きりになる機会を与えない周到さだ。
そして数日経ったある日、深夜に帰宅したフェリックスは、水を飲みに来たリゼットと鉢合わせになった。急いで部屋へ戻ろうとするリゼットの腕を掴まえる。
「この間の話、詳しく聞かせてもらおう」
「なんのこと?」
「とぼけるな」
フェリックスは、彼女を部屋へ押し込んでドアを閉めた。
「ミシェルの何を見た!?」
リゼットはにやっと笑った。
「あれはいつだったかしら。寝つけなかったからフェリ様の部屋へ行ってみたの。覗いてみたらミシェルと二人きりじゃない?」
寝つけないからって、若い女性が男の部屋にホイホイ来てもらっても困るのだが。
「ミシェルを見て驚いたわ。あんなこと、漫画や小説の世界かと思ったけど本当にあるなんてね」
ミシェルを見て驚いた!? ということはアレを見たのか!!
もし、ミシェルの頭にある犬の耳を見たとしたら……。フェリックスは顔が青ざめるくらい動揺した。一緒に住んでいればこんな事態になることを予測できたはずなのに、己の不甲斐なさに唇を噛む。
「どうやら覚えがあるみたいね」
リゼットに主導権を握られて、フェリックスは反論すらできない。「条件は何だ」と絞り出すような低い声で訊いた。
「そうねえ。取り敢えず……」
フェリックスはネクタイを引っ張られて、低い体勢になったところへ唇に柔らかい物が触れた。それがリゼットのものと分かると、反射的に手を払いのけて距離を取る。
「口止め料よ。キスで済むなら安いものでしょ?」
物凄い形相で睨んでいる彼をよそに、リゼットはしれっと言ってのけた。フェリックスもキスくらいで騒ぐ年齢ではないが、これはあまりにも不本意で悔しい。彼女が男なら殴り飛ばしていた。
「こんなことをして、ただで済むと思うなよ」
「今後のことはまたゆっくり考えましょう」
「お休みなさい」とドアが閉まると、フェリックスは手の甲で口を拭った。何度拭っても生々しいキスの感触は消えず苛立ちが湧き上がる。
ふっと脳裏に浮かんだのは、淋しげに微笑むミシェルだった。




