その7
クローゼットに押し込められたミシェルは限界だった。
狭い所に恐怖は感じないが、暗い場所に独りでいるのは未だに苦手なのだ。いっそのこと犬耳のままここから飛び出そうか。
一方、フェリックスも咄嗟とはいえミシェルをクローゼットへ押し込んだことを後悔した。暗闇を怖がる彼女を一刻も早く助けてやりたい。
勝負に出たフェリックスは、リゼットを壁に押しつけて息が掛かる距離まで顔を近づけた。ダークグリーンの熱い眼差しに、恋に百戦錬磨のリゼットもときめかずにはいられない。恍惚の表情でその瞬間を待っていたが、フェリックスはリゼットの腕を掴んで有無も言わせずドアまで連れていく。
「ちょっと何するのよ!!」
「それはこっちの台詞だ。さっさと出ていけ」
帯びた熱がすっかり冷めたリゼットは頬を膨らませた。
「意気地なし!!」
「お前こそ私を誘惑するなど十年早い」
「見てなさい。あなたは絶対わたしのものになるんだから」
リゼットの捨て台詞は閉まるドアによってかき消された。フェリックスは遠ざかる足音を確認してクローゼットの扉を開けると、ミシェルがハンガーに掛かった服をかき分けて急いで飛び出した。
「大丈夫か?」
「はい……。なんとか生きてます」
よほど居心地が悪かったのか、涙目で額はうっすらと汗を掻いていた。犬耳は消えていたものの、だらしなく舌を垂らしているあたりが犬っぽい。常備しているミネラルウォーターを手渡すと、ミシェルはごくごくと音を立てて一気に飲み干した。
ようやく落ち着いたところで、帰宅を装うためミシェルは窓から抜け出て玄関のドアへ回りこんだ。そして、わざとらしく家へ戻ったが、幸いリゼットに気付かれることなくこの日は終わったのである。
翌朝、かねては寝坊するリゼットが早々に起きてくると、大きな欠伸をしながらしフェリックスの真向かいの席に着いた。
「おはようございます、リゼットさん」
ミシェルがキッチンから挨拶する。
「珍しいこともあるものだ。雨が降らなければいいがな」
「お生憎様。今週はずっと晴れみたいよ」
新聞に目を通しながら嫌味を言うフェリックスに、リゼットはしかめっ面で舌を出した。
「あ、ミシェル。わたし、プレーンオムレツね」
「食いたければ自分で作れ」
ミシェルの朝はただでさえ忙しいのに、自分のわがままを押しつけるリゼットを窘める。
「すぐ準備しますから平気ですよ」
ミシェルが二人の間に割って入ってこの場を収めた。
フェリックスは新聞を畳んでテーブルへ置くと立ち上がった。食器棚から数枚の皿を取り出すと、ミシェルが料理をよそう。コーヒーカップ、パンが入った籠……、リゼットの前に次々と並んでいく。
キッチンに立つ二人がとても和やかで似合っていたので、面白くないリゼットが爆弾を仕掛けた。
「ねえ、ミシェルって彼氏いないの?」
ガチャンッ!!
キッチンの奥で食器がぶつかる音がした。フェリックスである。
朝っぱらから何を言い出すんだ!?
別に朝でなくてもこの手の話題はいつでも振ってくるものだ。
「彼氏……ですか?」
「ミシェルって可愛いから、告られるんじゃない?」
「なんだ、その『こくる』ってのは?」
「好きって告白されることよ。そんなことも知らないなんてフェリ様もオジサンね」
『オジサン』でなくても知らない者は多いはず、なのに鼻で笑われてフェリックスは憮然とした。
「全然いません」
「ウソ!? ミシェルが気付かないだけよ。たとえばあの軍人とか」
フェリックスの脳裏に金髪の部下がよぎる。
「軍人……マシューさん?」
「あんなゴリラじゃないわ。ほら、フェリ様の腰巾着で金髪の」
「腰巾着じゃなくて隊長付きなんですけど!!」クリスがこの場にいたらそう抗議していただろう。
「クリスさんのことでしょうか? あの方はお友達です」
「そうかしら?」
「いい加減にしろ」とたまらずフェリックスが遮った。これ以上リゼットに喋らせたら厄介だし、なにより彼自身が苛立って仕方がない。そして、その理由を探るよりクリスとの関係が妙に気になった。
食事を済んでミシェルがキッチンで食器を洗うの見計らって、フェリックスはテーブルを拭くリゼットに小声で訊いた。
「なぜあんなことを言った?」
「あんなこと?」
「彼氏がどうのって話だ」
「別におかしいことじゃないわ。それとも、いたら困るわけ?」
「お前が絡むとろくなことにならん」
リゼットは「はあ」と大きく息を吐いて、くるりとふくれっ面をフェリックスに向けた。
「フェリ様、ミシェルのことでわたしに何か隠してない?」
ミシェルの正体がばれた!?
フェリックスは態度に表さなかったが、内心は心臓が止まるかと思うほど激しく動揺していた。隠していないと告げると、あっさり諦めたが明らかに疑っている様子である。藪をつついて蛇は出したくないので、フェリックスもこの話題を打ちきって出勤の支度を始めた。
フェリックスが出勤すると、クリスが気まずそうに挨拶した。
「おはようございます」
「おはよう」
犬を借りてまでドッグカフェに行ったのが、ミシェル経由でばれているとわかっているのだろう。先に釈明した方が賢明だとクリスが口を開いた。
「あの、隊長。この間のことなんですが……」
クリスは有能な部下である。容姿も性格もそこそこいい。ミシェルと歳も近いので、隣に並んでも不自然ではない。リゼットの言う通り、ミシェルと付き合ってもいいのかも知れない。ただ、彼女が『人間』だったらの話だ。
非現実的な事実を若いクリスが受け止められるのか。そして、自分は交際する二人を冷静に受け入れなれるのだろうか。
じっとこちらを見つめる上官に、クリスは体中から冷や汗が噴き出した。
ようやくフェリックスが視線を外したので、クリスは一礼して逃げるようにその場を立ち去った。
自分のデスクに着いたクリスは大きく深呼吸をした。フェリックスは尊敬する軍人だが、あの目で睨まれると寿命が縮まる。
この後もフェリックスはクリスを意識し続けた。隊長付きという肩書なので、否が応でも視界に入ってくる。その度リゼットの顔と言葉が脳裏にちらついた。
帰り道、フェリックスの足は自然とドッグカフェに向かっていた。バイト時間は夕方近くなのでミシェルの姿はなく、窓から店内を眺めていたら掃除中のモニカと目が合った。モニカはモップを壁に立て掛けて店から出てきた。
「こんばんは。ひょっとしてミシェルを迎えに来たんですか?」
「いや、通り掛かっただけだ」
「彼女が来てくれてすごく助かってます。お客さんの中にはファンもいるのよ」
フェリックスが眉を顰めたので、モニカは「男の人じゃないからで安心して」と慌てて付け加える。昨日の今日でミシェルの恋愛話に過敏になり過ぎているようだ。
「あの子、頑張り屋さんだからとことんやっちゃうのよね」
確かにそうだと頷く。すると、モニカが思い出し笑いをした。
「料理とか得意なんだけど、ケーキのデコレーションは苦手みたい。意外よね」
料理の盛り付けは完璧なのに、細かい作業は苦手だという。他人からミシェルの新たな一面を知らされて、フェリックスは驚きとともに複雑な気持ちになった。




