その3
朝八時、夜勤を終えたマシューが日勤者への申し送りを済ませて待機室へ戻って来た。特殊部隊上がりとはいえ、四十歳を越えるとなかなか疲れが取れにくい。
歳は取りたくねえな。
マシューは私服に着替えながら心の中でぼやいた。彼の今後の予定は、築二十五年のアパートに寝に帰るだけ。
基本、独身者や単身赴任者は部隊の宿舎で生活するが、年齢などの条件を満たすと民間の住まいに移ることができる。若い軍人が多い宿舎に、自分のような古株が居座っては彼等も寛げないだろうとアパートを借りたのだった。
帰り支度を終えて腰を上げると彼の鼻に芳しい香りが届いた。辿れば黒髪の上官がコーヒーの入った紙コップを持って立っている。
なにかあった……か?
隊長という立場上、部下に弱みを見せないフェリックス。傍から見ればなんでもない光景でも、腐れ縁のマシューからすれば彼からのさりげないサインだと感じた。
「これはこれは、隊長殿自ら恐れ入ります」
無言で差し出された紙コップを、マシューは仰々しく受け取った。窓際に寄りかかってコーヒーを飲むフェリックスは、風情がない紙コップでさえも絵になる。精悍な顔立ちに均整の取れた長身、ちらりと覗かせる色気で世の女性達を虜にしてきた。
『去る者は追わず来る者は拒まず』がモットーの隊長殿にも、ここ数カ月身辺に変化があった。
実は同居人がいる、しかも飛びきり美人で気だてがいい。
フェリックスに女がいるのは珍しくないが、数か月も一緒に暮らすのは稀だ。もってせいぜい一ヶ月、大抵は女性から別れ話を切り出してフェリックスがあっさり受け入れる。
そんな彼が飽きずにいるのだから、どんな女性かと思えば姪だと言う。名前は『ミシェル』、従順で愛らしく、家事が得意で料理はそんじゃそこらの店より美味い。
ミシェルが来てから、マシューやクリスはフェリックスの自宅へ集うようになった。もちろん、上官の仏頂面を拝みに行くのではなく、ミシェルとその手料理に会いに行くのだ。そして、彼女は笑顔で迎えてくれる。
そんなミシェルをフェリックスは可愛がっている。
年頃の彼女に恋愛話が飛び出すものなら血の雨が降るかも知れない。幸か不幸か、ミシェル本人も興味がなくフェリックスにべったりなので修羅場はなさそうだ。
そろそろコーヒーも飲み干した頃合いをみて、フェリックスが口を開いた。
「ミシェルがドッグカフェでバイトをしている」
「へえ」
マシューは、クリス経由で知っていたが敢えて初耳とばかりに相槌を打つ。それにしてもこの男、悩むのはミシェルのことばかりだ。
「よく許したな」
「許すもなにも私に内緒で働いていた」
「お前さんにも秘密にしていたとは、男でもできたか?」
軽口を叩いたら、思いっきりフェリックスに睨まれた。「冗談の通じない奴だ」とマシューが肩を竦める。
「で、なんの仕事だ?」
「ドッグカフェの店員だ」
「犬相手なら安心じゃねえか」
心配はそこではないと、フェリックスがため息交じりに言った。彼が気になるのは、黙ってバイトをしていたこと。許可するしないは別として、せめて相談はしてほしかった。そうしたら話だけでも聞いてやったのに。
「余計な心配はかけたくなかったんだろうよ」
「やはり、私では甘えられないのだろうか」
柄になくフェリックスがしんみりと呟く。
「確かにミシェルは甘え下手だな。お前さんだけじゃなくみんなにだ」
『みんな』と言われて、少しだけフェリックスがほっとした表情をした。
お前さんも甘え下手だがな。
分かりづらいが、これも彼なりの甘えなのかもしれない。
あまり干渉し過ぎると嫌われると忠告したら、一瞬動揺した目を向けた。今日のフェリックスは人間味があって面白い。
おいおい、バイトごときで動揺してたら男連れてきたら身が持たねえぞ。持たねえのは男も一緒か。
物凄い剣幕で殴り飛ばす光景を想像して、マシューは必死に笑いを堪えた。
「少しはミシェルを信じてやれ。出来ないなら手放すこった」
「手放す……か」
フェリックスは神妙な面持ちで何か考え込んだ。頭の片隅に置いておけばミシェルがいなくなってもみっともなく狼狽えなくても済む。
「ふう」と息を吐いて、フェリックスが壁から体を離した。どうやら話は終わったらしい。
「引き留めてすまなかった」
「どうせ帰ってもすることないし構わんさ」
妻子に先立たれて、家に帰っても話し相手はいない。十数年間の独り暮らしで寂しさに慣れていたが、ミシェルと知り合って人の温もりが懐かしくなる。もっとも保護者のフェリックスが知れば機嫌を損ねるから口にはしないが。
「モーガン軍曹、まっすぐ家に帰って下さいよ」
隊長付きのクリスが、ミシェルの所へ行くのを警戒して釘を刺した。「へいへい」と片手をあげて待機室をあとにする。
隊長室へ戻ったフェリックスは、マシューに胸の内を語って少し気持ちが軽くなった。そして人を育てる難しさを改めて痛感する。
今度はちゃんとしたカップにコーヒーを淹れて一口飲んだ。揺れる湯気に今朝の出来事を思い出した。
今朝のミシェルは晴れやかな表情をしていた。バイトを内緒にしていてよほど心苦しかったのだろう。フェリックスが食卓に着くとすぐに朝食が並ぶ気の遣い方だ。
「今夜は何が食べたいですか?」
「簡単なものでいい」
と言っても、かなりの腕前を持つ彼女にかかればどんな料理も『簡単なもの』らしい。
「リゼットさんも帰ってくるかもしれませんね」
「……」
返ってこない会話にミシェルが不思議そうに振り返ると、フェリックスは気難しい顔をしていた。
「いろいろな人間がいる。皆いい奴とは限らんが大丈夫か?」
ミシェルは見かけは大人だが、急激な成長で心が追いついていないところがある。彼女が推定年齢十七歳の頃、同じ年頃の女子高生に馬鹿にされてひどく傷ついた時期があった。今回も多くの人間と関わることで、また心に傷を負うのではないか。
「わたしが出会った方々はいい人ばかりでしたよ?」
「アランの友人みたいな子もいる」
フェリックスは言った後に「しまった」といった風な表情をした。心配するあまり、嫌な思い出を掘り起こしたのは彼自身のだったからだ。
だが、ミシェルはきょとんとしてフェリックスを見つめている。
「アラン……?」
「いや、なんでもない」
言葉を濁すと、ミシェルが意外な台詞を口にした。
「たいちょーさんの部下の方ですか?」
今度はフェリックスが彼女を凝視する。
「お前が高校生ぐらいの頃に出会った少年だ」と説明しても、ピンとこないのか目を白黒させている。
「……忘れたのか?」
いくら大人になったとはいえ、たった数か月前のことだ。しかもシェルに告白までした相手なのに、まるで記憶にないらしい。
「どんな方でしょうか? 特徴を教えてもらえれば思い出すかもしれません」
嘘を言っている目ではなかった。
この時フェリックスは違和感を覚えたが、これ以上追究してはいけない気がした。
「少し話をしただけだからな。覚えていないのも当然だ」
彼の嘘を、ミシェルはまったく気づいていなかった。




