その6
秋も深まり朝夕もだいぶ涼しくなった。寝ていても朝方には肌寒く眠りが浅くなるがこの頃違う。
程よい布団の温もりが熟睡を誘い、起床の時刻が近づいてもフェリックスの瞼は重かった。
目覚ましのアラームが鳴り、サイドテーブルに手を伸ばした時である。すぐ隣で幸せな寝顔のミシェルを発見した。
ミシェルのやつ、また部屋を間違えたな。
顔を舐めるのをやめたかと思えば今度はこれだ。
時々、夜中にトイレに行った帰り寝惚けて彼のベッドへ潜り込む。お陰で子ども特有の体温の高さが安眠できるのだが。
フェリックスもいい大人で何度か女性と朝を迎えたことはあるが、心底安らげるものがミシェルにはある。
サラサラした栗毛を撫でるとすり寄ってお決まりの寝言。
「たいちょー……さん、むにゃむにゃ」
体を丸めて眠る彼女を起こさぬよう、そっとベッドから抜け出して朝食の準備をしているとミシェルが慌てて部屋から出て来た。
「わー!! 寝坊しました!!」
「私もだ。今朝のジョギングは中止だ」
「手伝います」
寝ぼけまなこに寝癖がついた髪でにっこりと笑うさまが妙におかしくて、フェリックスが珍しく表情を崩す。
「……今、笑いましたか?」
拗ねた口調にフェリックスの顔がさっと仏頂面に戻った。
「いや」
「笑いましたね?」
「そこの皿を取ってくれ」
「笑ったんですよね?」
あまりにしつこいからフェリックスが頭をわしわしと撫でると、ミシェルの美しい髪が爆発して寝癖どころの騒ぎではなくなった。
食器棚のガラスに映った姿にミシェルが驚く。
「あー!! ひどいです!!」
「五分だけやるから直してきなさい」
しょんぼりする彼女の頭を今度は優しく撫でると、たちまち機嫌が直り鼻歌まじりで洗面所へ向かった。
今、笑いましたか?
ついさっきミシェルが言った言葉が蘇る。
そういえば久しぶりに笑ったな。
部隊でも滅多に笑わないと評判の彼だ、もちろん自宅も例外ではない。第一、誰もいない部屋でヘラヘラ笑っていたらそれはそれで気持ちが悪いだろう。
ミシェルが来てからフェリックスの生活が劇的に変わった。二人で食べる食事、会話……、独りでは成り立たない日常に温かい空気が流れる。
傍にいるのが妻や恋人でもいいのだが、独りに慣れ過ぎたのか面倒臭いと思ってしまう。所詮は他人で、些細な言葉の取り違いで崩れるもろさをフェリックスは嫌というほど思い知った。
その点、家族同然のミシェルはいい。素直で従順でしっかりしている。フェリックスが知る限りしっかりし過ぎていた。同年代の子どもはもっと我がままを通してもいいのではないだろうか。
そんなミシェルは今朝もパタパタと家を駆け回っていた。
「洗濯物はカゴに出しておいて下さい」
「タオルは二番目の棚にあります」
「今夜は遅いですか?」
矢継ぎ早に言われてフェリックスもいささか忙しない気分になる。取り敢えず最後の質問だけ答えた。
「遅くなったら先に寝てなさい」
彼の帰宅は警衛隊という部署がら不規則である。努めて早く帰るようにしているが、不測の事態が発生すれば直々に指揮を執らなければならないのだ。
幼いミシェルを残して部隊へ行くのは後ろ髪が引かれる思いである。
「それから……」
あとに続く台詞がミシェルの声と重なる。
「「戸締りはしっかりと」」
ニコッと笑う彼女の頭を撫でて玄関へと向かった。フェリックスが靴を履き終えるのを待ってバッグを手渡す。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
主人を見送りドアが閉まると、ここからはミシェルの独擅場となる。ひまわりがプリントされたお気に入りのエプロンを付けていざ洗面所へ。
洗剤を入れてボタンを押すと洗濯機が回り出した。次は食器洗いだが、これまたスイッチを入れるだけで洗浄と乾燥までしてくれる。掃除も円盤形の機械がセンサーでごみを見つけて自動的に部屋を動き回った。
ほとんど機械が済ませてしまう実状にミシェルは時々思う。
わたしって必要ですか?
口からこぼれそうになる言葉を慌てて飲みこんだ。こちらから押し掛けたのにフェリックスは黙って受け入れて、最低限の生活どころか最上級の幸せまでもたらしてくれる。
だから、恩に報いるために出来ることはなんでもすると心に決めた。本当の意味が別にあるとしても……。
洗濯機が終了を告げると、今日は天気がいいのでカゴを抱えて庭へ出ていく。洗濯物を干す際に、見上げる秋空は澄んだ空気のせいか綺麗に晴れ渡っていた。
空が高いな。
フェリックスがそう表現したのを思い出して真似てみる。
「空が高いな」
また一つ人間らしくなった気がした。
テンポのいい足音を立てて廊下を歩くフェリックスに通り過ぎる者達が敬礼していく。
紺の軍服をきっちり着こなして張りつめた緊張感が漂う彼だが、まさか人間に化けた仔犬と子育て生活とは想像できない。
今日も気難しい顔で庶務をこなすが、耳は部下達の子育て情報を絶えず探っていた。ネットでも得られるが育児に携わっている彼等の方が受け入れやすいのもある。
それにしても今まで何気なしに聞いていたが、顔に似合わず積極的に家庭サービスをしている者が多い。
なかには子どもの弁当も作る上級者もいた。
警衛隊という不規則な勤務だからこそ貴重な時間を家族の為に充てているのだろう。
突如子どもらしき犬の世話をすることになったフェリックスは一抹の不安を覚えた。
躾けると大口叩いたが、本当に私のやり方でいいのか。
ミシェルは滅多に不平不満は言わない、こちらが困惑するくらいいい子過ぎた。もう少し子どもらしく感情を露わもしてもいいのだが。
むしろ、わがままを言ってくれた方が何を考えているのか分かり合えるというものだ。
午前中の会議から戻ってきた悩めるフェリックスをマシューが待ち構えていた。
「お嬢ちゃんは元気かい?」
「ミシェルのことか?」
上官の自宅に不法侵入した一夜から、マシューはミシェルがえらく気に入ったのか会わせろとうるさい。
「近々お宅訪問するぞ」
「あ、俺もお供します!!」
何処からともなくクリスが口を挟んだ。
「ミシェルちゃん、可愛いしいい子ですよね」
「可愛い? いい子?」
片眉が跳ねた上官にクリスは慎重に言葉を選ぶ。
「はい。俺が知っている女の子の中で一番です」
「本当か?」
「本当であります!!」
ピンと背筋を伸ばして『気を付け』の姿勢をとった。
そんな風に育っているのか。
杞憂だったとフェリックスは心の中でほくそ笑む。
「おい、見たか? 今、笑ったぞ」
「見間違いですよ。隊長に限って……、うわっ!!」
口の端を上げる彼にクリスは目を疑った。
隊長が笑ってる!!
「あれぞ『鬼の目にも涙』だな」
「モーガン軍曹、それ使い方が違ってます」
このあと、プロレス技のオンパレードに悶絶するクリスである。