その8
「たいちょーさんは今忙しいので、ちょっと」
ミシェルが語尾を濁らすと、モニカは一呼吸おいて苦笑いした。
「ごめん。つい焦って無理なお願いしちゃったわね」
こうして話をしている間も、客が訪れて店内が一段と賑やかになる。次々と注文が舞い込み、モニカはポニーテールを揺らしながら対応していた。
これも『仕事』なんだ。
ミシェルは興味深く観察していたが、いよいよ忙しくなりきりきり舞いのモニカが気の毒になった。
「少しだけなら、お手伝いしましょうか?」
つい口からこぼれると、たちまちモニカの顔が輝いた。
「ほんと!? 助かるわ!!」
こげ茶色のエプロンを手渡されたので、ミシェルは長い栗毛を一つに束ねてキッチンへ入る。たまった食器を手際良く洗う彼女に、モニカも一安心といった風に頷いた。
夕方、閉店を迎えると二人はぐったりとテーブルにうつ伏せた。結局、ミシェルは帰るタイミングを失い閉店まで手伝う羽目となったのだ。
こんなにくたくたになるまで働いたのは、生まれて初めての経験だろう。最後の皿を拭き終えると、モニカが座るよう促した。
「ご苦労様。コーヒー、どうぞ」
ミシェルの前に差し出したのは、コーヒーとお菓子の国から飛び出したような可愛いカップケーキだ。
「わあ!! いいんですか!?」
実はミシェル、カップケーキの注文が入るたびに心の中でよだれを垂らしていたのである。甘さ控えめのシフォン生地にピンクや水色など淡いクリーム、ハートや星のトッピングときたら、スイーツ好きなら心ときめかないはずがない。
「残り物で悪いけど」
「全然!! いただきます!!」
一口頬張ると、ほどよい甘さが疲れを癒してくれた。幸せそうに食べるミシェルに、モニカはもう一つ勧める。
「今日はほんと助かったわ。気が利くし手際もいいし」
「ふぉれふぉどでもぬあいれす(それほどでもないです)」
あまりの美味しさに頬張り過ぎてしまい、ミシェルは慌ててコーヒーで飲みこんだ。
「お行儀悪くてごめんなさい……」
「いいのよ。美味しそうに食べてくれるから嬉しいわ」
モニカはブラウンの瞳を細めて笑った。
「これ、モニカさんの手作りなんですよね?」
「ええ。犬用のもあるのよ」
そう言って、後ろのショーケースに首を巡らす。中にあるカップケーキは、ミシェルが食べた物と見た目はまったく同じだった。
「もちろん、人間と使っている材料が違うから安心して」
パフェ一筋だったが、カップケーキに心が奪われそうになる。人間の食べ物は、どうしてこんなにも綺麗で美味いのだろうか。
「今日はいきなり連れて来てごめんね」
「いいえ。とても楽しかったです。わたし、そろそろ帰らないと」
「あら、もうこんな時間ね」
ミシェルは一礼して立ち上がると、モニカが入口まで見送り紙の手提げ袋を持たせた。
「あなたみたいな子と一緒に仕事出来たらなあ」
帰り際に呟いたモニカの顔を、ミシェルはまともに見ることができなかった。
家へ帰って来たミシェルは、当然のごとく一人だ。「ただいま」と言っても「お帰り」と返す相手もいない。
リビングのテーブルに、土産でもらったカップケーキを並べてみた。モニカは働いた分の給料を払おうとしたのだが、ミシェルが断ったので代わりにカップケーキを幾つか持たせてくれたのである。
ふふふ、可愛い。食べるの、勿体なあ。
頬杖をついて眺めながら、今日一日の出来事を振り返った。
率直な感想は、楽しかった。
様々な人と犬が店を訪れると、モニカの作ったカップケーキに舌鼓を打つ。その皿はミシェルが洗ったものだ。初めて会った人も、犬を通して話をして友達となる。
もちろん、楽しいことばかりではないだろうが、これなら頑張れる気がした。
明日もモニカさん、一人なのかなあ。どうしよう……。
フェリックスに相談したいが、あいにく彼は当分帰ってこない。
『困ったことがあったら連絡しろ』
コルクボードに貼った携帯番号に目をやった。電話に手を伸ばそうとしたら、リゼットの言葉がふっと頭をよぎる。
『だいたい、隊長様の許可がないと何もできないの!?』
彼女の父親が渡した生活費を、フェリックスに報告するしないで揉めた時の話だった。
『自分の意思はないわけ?』
自分の意思はちゃんとあるのに、ミシェルの胸に深く突き刺さる。姿かたちは立派な人間の大人なのに、思考はまだ幼いままでフェリックスに頼りっぱなしだ。
ミシェルがもし人間だったら、モニカの元で働きたいと言っても許してくれたかもしれない。だが、ミシェルは犬だ。複雑な人間の世界に一人放り出されて、生きていく保証はないからフェリックスは傍にいてくれる。
「はあ……」
マシューの持論だと、ため息をついたら幸せが逃げていくらしい。なら、今のは一年分の幸せが逃げていく気がした。
翌日、ミシェルは掃除機をかけている途中、何度も壁時計を見た。そろそろ、モニカの店がオープンする時刻である。昨日の忙しさを目の当たりにして、ミシェルはそわそわして落ち着かない。
どうしよう。お手伝いに行かなくていいのかな……。新しいバイトの人、決まったかなあ。
昨日の今日で、すぐ見つかるとは思えない。落ち着かないので、取り敢えず様子を見に行ってみた。
店の前まで来たミシェルは、行ったり来たりしていた。大きな窓からひょこっと覗くと、案の定モニカが店内を走り回っている。
気配が感じたのかこちらを振り向いたモニカと、ミシェルとばっちり目が合った。ガラス張りの窓は姿が丸見えで、隠れようもないミシェルはおずおずと店のドアを開けた。
「いらっしゃい」
「こんにちは……」
今日は客なのか手伝いなのか、どの立ち位置でいればいいのかミシェルが躊躇っていると
「あら、あなた。コールダー隊長さんちの」
女性の声に首を巡らすと、いつぞや公園で出会ったプードルとその飼い主だった。
「この間はほんとうにありがとうね。お陰でうちの子、すっかり良くなったわ」
「よかった。お役に立てて嬉しいです」
視線を下げると、プードルも礼を述べている。
「ねえ、わたしも訊きたいことがあるんだけど」と、同じテーブルの女性が身を乗り出した。
「ピピちゃん、最近食欲がないのよ」
『ピピちゃん』という名前からして小型犬と思いきや、紹介されたのはセントバーナードの老犬で貫録ある姿にミシェルも恐縮する。
ミシェルは身を屈めてピピちゃんと目線を合わせた。集中して話を聞くが、ミシェルとて医者ではないのでありのままを伝える。
「ペットフードが胃にもたれるそうです。もう少し量を減らすか変えた方がいいと思います」
「そういえば、ペットショップの人も言ってたわ。帰り、寄ってみようかしら」
「ね、わたしの言った通りでしょ」
「ええ」
こうして、ミシェルはあっという間に客に囲まれて質問攻めにあった。
「ここで働くの?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「モニカさんも一人じゃ大変よねえ。なんでもバイトの子、彼氏が犬嫌いで辞めたんですって」
そっか。みんな犬好きとは限らないものね。
その点、フェリックスは犬好きだからここで働いても問題ない。ミシェルの気持ちの天秤は次第に傾き始めた。




