その10
早く帰りたい時に限って仕事が舞い込み、フェリックスは苛立ちを隠せなかった。大層なものからくだらないものまで、迅速に処理していく。今頃、ミシェルが大変なことになっているかと思うと気が逸る。
あらかた片付くと、有能な隊長付にあとを任せて帰途に着くのだった。
その頃ミシェルは、金髪のご令嬢のペースにようやく慣れてきた。こんなに長く他人と同じ空間を共有したのはフェリックス以外初めてだ。
夜の七時を過ぎてもフェリックスが戻らず、お腹が空いたと騒ぐリゼットに夕食を済ませてもらう。
「ねえ、隊長様はまだなの?」
ミシェルがリビングの窓の外を眺めてうわの空だったので、「ねえ、聞いてる?」とリゼットは頬を膨らませた。
「もうすぐ帰ってきますよ」
「もうすぐってどのくらいなの?」
「今、家の門の前です」
間もなく玄関のドアが開く音がした後に「ただいま」と低い声がしたので、これには半信半疑のリゼットも驚いた。
「なんでわかったの!?」
「足音がしましたから」
「わたしには聞こえなかったけど」
短靴が刻むリズミカルな足音を何十回も聞いてきたのだ。初めて出会った雨の日もあの音がして、顔を上げると彼がいた。
だから、大切な恩人のそれを間違えるはずがない。
「お帰りなさい」
出迎えたミシェルをじっと見つめるフェリックス。半日会わない間にやつれた感じがして、労いの意味で彼女の頭を撫でてやった。小さな頭に栗色の髪は、当時の飼い犬をを彷彿させる。
隣で原因元のリゼットがすり寄ってきた。
「隊長様、わたしには?」
「ミシェルの手伝いをしたならしてやる」
「ええ、もちろん。えっと……」
リゼットの澄ました顔がすぐ困惑に変わった。何もしていないので思いつかないのも当然である。彼女の答えを待たず、フェリックスは鞄をミシェルに手渡してさっさと自室へ向かった。
「あ、ちょっと隊長様!!」
「入ってくるな」
リゼットが追い掛けると、目の前でドアを閉められてもう少しで鼻を打つところだった。
「もう、照れちゃって。素っ気ないところもまた素敵なんだから」
今の照れてたのかな……?
そうは感じなかったミシェルが首を傾げると、リゼットと目が合った。
「なによ。なにか言いたそうね」
「え? なにもないですよ。ご飯の支度しなくちゃ」
キッチンへいそいそと逃げていくミシェルを、リゼットは腕を組んで疑いの目で追っていった。
こうしてリゼットが住み始めて一週間になろうとしていた。花嫁修業という当初の目的は果たされず、家事は全てミシェル任せとなっている。
そして、今日も出勤時間になったフェリックスを支度をする。ミシェルが持ってきた上着に袖を通し、手を差し出したらミシェルが持ってきた鞄がすぐ納まる。
会話を交わさなくても、見事な阿吽の呼吸に、リゼットの嫉妬の炎が点火した。
まるで、長年連れ添った夫婦みたいじゃない!!
「行ってくる」
「い……」
「いってらっしゃーい!!」
ミシェルが言うよりも早く、リゼットが大きく手を振ったのでフェリックスは少し頷いて玄関を出た。
「さてと」とリゼットがくるりとこちらを振り向く。
「わたしが掃除機をかけるから、ミシェルは洗濯物を干してきたら?」
珍しく自ら手伝うと申し出た彼女に、ミシェルは驚きで目を丸くした。
「いいんですか!? じゃあお願いしますね」
「ええ。任せてちょうだい」
リゼットは気味が悪いほどにっこりとほほ笑んだが、善意でしようとはこれっぽちも考えていない。ミシェルが庭で洗濯物を干すのを確認して、フェリックスの部屋のドアノブを回した。カチャっと音を立ててドアが開く。いつもミシェルが出入りするので、鍵をしなかったのが裏目に出たようだ。
ここが隊長様の部屋ね。殺風景だけど彼らしいわ。
辺りを見回して、最後に目についたのはベッドだ。抜け出したままになっているので、今まさに寝そべろうとした時である。
「おい、何をしている」
「ふぎゃっ!!」
いるはずもない黒髪の軍人が入口に寄り掛かっていたので、リゼットは変な悲鳴を上げた。
「た、隊長様こそ、なんで!?」
「忘れ物を取りに来た」
心臓が口から飛び出さんばかりの彼女を尻目に、フェリックスは一直線に机に向かって置いてある書類を鞄に入れた。
「前の晩にちゃんと準備しておいてよ」
「お前に言われたくない」
「ミシェルが入っていいって言ったのよ」
すると、彼の後ろからひょこっと若い軍人が顔を出す。どこかで見覚えがあると思ったら、初めてここへ来た時にいたクリスだった。
「おはよう、リゼット」
「気安く名前を呼ばないで」
リゼットがつんとそっぽを向いたので、クリスは肩を竦めた。
「名前で呼ぶなって無茶苦茶ですよ」
フェリックスが迎えに来た車に乗りこんだ第一声がこれだった。後部席に座った上官を、クリスはルームミラーで窺う。
「呼ばなければいい」
ばっさり切り捨てるとフェリックスは目と口を堅く閉じたが、クリスは尚も話を止めない。
「あの子、可愛いけど性格が悪いな。ミシェルちゃんとは正反対だ」
ミシェルみたいな従順な娘はそうそういない。なんといっても、彼女は……
「犬みたいですよね」
フェリックスの心臓がドキンと大きく跳ねた。
ばれたのか!? やはり、ミシェルの成長に気付いていたか!?
動揺を悟られないようにおもむろに目を開ける。ルームミラーに映った部下は普段と変わりがなかった。
「尽くすところが忠犬ぽくて。リゼットは気ままな猫かな?」
フェリックスの反応がないので、怒らせたと誤解したクリスが慌てて言葉を付け足す。
「大事な姪っ子さんを動物にたとえてすみません。俺が言いたかったのは、従順でいい子だなあって」
「気にしていない。私もそう思う」
クリスは、「よかった」と胸を撫で下ろすと運転に専念した。フェリックスもものの例えと分かり安堵する。
もしミシェルが犬と分かれば、皆どんな反応を示すだろうか。自分一人で守ってやれるだろうか。
ぼんやりと車窓を眺めていると、幾人かの通行人が視界から流れた。化粧の濃い太った中年女性、スーツ姿のサラリーマン、大きなカバンを持つOL、笑いながら歩く数人の学生。
ミシェルの将来は、この中のあるのだろうか。
漠然とした不安が今になって押し寄せる。
「オレガレン少尉」
「はい」
「ミシェルをどう思う?」
「え?」
クリスは一瞬ぎくりとした。彼女に好意を持っていることが、保護者でもある上官に感づかれたかと目が泳いだ。お互い独身で妙齢なのだから、周りからとやかく咎められる恋ではない。
だが、想いを遂げるには後部席に座る人物を突破しないといけないのだ。強面だが意外と柔軟性はあるので、話し合えば許してもらえる可能性もないこともない。
「そりゃあ、いい子ですよ。可愛いし、よく働くし」
「知り合ってどのくらいになる?」
この際だから、クリスの記憶に探りを入れた。「半年でしょうか」と答える部下に、フェリックスはため息交じりに「そうか」と呟いた。やはり大人になった最近の記憶しかない。踏み台に乗って家事をこなす幼い彼女の存在は、フェリックスしか知り得なかった。
「あんなに小さかったのにな」
切ない声色が自分の胸に染み渡る。




