その2
フェリックスがミシェルの両手首を床に押えつけると、ミシェルは身をよじり鼻にかけた甘ったるい声で訴えた。
「そんなに強く掴んだら痛いよぉ」
「甘えてもだめだ」
フェリックスは、靡きそうになる心を鬼にして突き放す。そうしないと、隙をみせたらこちらの身が危ういからだ。従順で清純な性格はどこへやら、露骨に雄を求める目のミシェルにフェリックスも煽られるがそこは理性で留まる。
「たいちょーさんがだめなら、ほかの人の所へ行くもん」
「それは許さん」
「じゃあ、たいちょーさんが相手してくれますか?」
「そんなふしだらな娘に育てた覚えはないぞ」
ミシェルは、的を得ていない様子で瞬きを数回した。やがて、意地悪い笑みを浮かべると息がかかるくらいの距離まで顔を寄せてきた。
「じゃあ、どんな風に育てたんですか?」
「少なくとも、男の寝込みを襲うような教育はしていないはずだ」
「ふふふ。分かってないですね」
含みのある台詞に、フェリックスは真下にいるミシェルを凝視した。
「たいちょーさんだからですよ」
私だから……?
一体、何だから自分にするというのか。理由を探ろうと注意が逸れた一瞬の隙を、ミシェルは見逃さなかった。フェリックスの視界が半回転して、あっという間にまた背中が床につく。
「もう逃がしませんよ」
流れ落ちて顔にかかる髪を、ミシェルは頭を振って払いのけた。その様子は美しく、フェリックスはつい見とれる。以前から可愛らしい容姿だが、ともに暮らしているうちに見慣れたのかも知れない。
こんなミシェルが迫れば大抵の男は喜んで応じるだろう。だから、余計独りにしておくわけにはいかなかった。
「ミシェル」
「はい」
「明日の朝飯はなんだ?」
「えっと……」
突然朝食の献立を訊かれて、つい本来の彼女が顔を出した。このあたりは律儀というか素直というか。褒めてやりたいが、この状況で油断したらそれこそ『飼い犬に手を噛まれる』というものだ。
ミシェルの押えつけた力がふっと弱まった瞬間、フェリックスはミシェルを払いのけるとドアへ向かい鍵を掛ける。
「正気に戻るまで付き合ってやる。覚悟しろ」
第四師団警衛隊長フェリックス・コールダー大尉ともあろう男が、若い娘を相手に上になり下になり攻防を夜通し繰り広げられることになった。
翌朝、ミシェルが目覚めたのは床の上だった。どうしてこんな所に寝ていたのか、疑問が湧かないくらいぐったりして頭が回らない。
洗面所で顔を洗い、すっきりしたところで鏡に映った姿に目が点になった。基本的には変わっていない、しかし何かがおかしい。もう一度顔を洗ってみたが結果は同じだった。
「たいちょーさん!! たいちょーさん!! なんか変ですぅっ!!」
驚いたミシェルは慌てて部屋に走って戻ると、床に転がっているフェリックスを激しく揺すった。目覚めた彼の目の下には何故かクマが出来て、髪も服も乱れてまくっている。一晩ですっかりやつれた姿にミシェルの興奮は吹き飛んだ。
「そんなにボロボロになってどうしたんですか!?」
「……覚えてないのか?」
ボロボロにされたフェリックスが、文句の一つでも言おうと振り向いて唖然とする。
ふっくらした頬がシャープになり大人っぽい顔立ちになっていた。「たいちょーさん……」と愁いを帯びた表情で詰め寄る図は、昨夜の騒ぎを彷彿させて彼の表情は渋い。
頭に居ついた犬の耳は消えたが、フェリックスの視線の先は一夜にしてかなりサイズアップした胸。これは確かに変だ。
フェリックスがターンするよう指で合図すると、ミシェルは立ち上がりおずおずと回った。推定年齢二十代前半といったところか。全体的に大きな変化はないが、細身の割に豊かな胸へ育っていた。こんな彼女に夕べ迫られたら、どうなっていたことやら。
「どうしよう……」
「どうしようもないから落ち着け」とフェリックスはつれない返事だ。今の彼は昨夜の妖艶ミシェルと格闘で疲れ果て、目の前の問題を解決する気力すらない。相手が男なら容赦しないが女ならそうもいかなかった。
「ひょっとしてわたし、たいちょーさんに何かしましたか!?」
フェリックスは一瞥すると、大きく息を吐いて起き上がった。外見は大人でも精神は幼いままで、その落差に言う気が失せる。
「とにかく私は部隊に行かなきゃならん。具合はどうだ」
「なんだかひと皮剥けた気分です」
「だろうな」
言い捨てて支度を始めるフェリックスに、残されるミシェルは部屋を右往左往する有り様だ。
「たいちょーさん、わたしはどうしたらいいでしょうか!?」
「対処はこの間と一緒だ。外出はやめて家に大人しくしているんだぞ」
ミシェルが心配だが、上に立つ者が私情で欠勤するわけにはいかない。不安げな彼女に見送られてフェリックスは家を出た。
絶不調のまま出勤したフェリックスだが、毎日仏頂面なので今朝の異変に部下達は気づいていなかった。
隊長室へ入っていく彼を元気な挨拶が引き止めた。
「隊長、おはようございます!!」
寝不足と疲労困ぱいの彼をげんなりさせたが、上機嫌のクリスは上官の不調にお構いなしで話し掛ける。
「夕食の件ですが、いつ頃がよろしいでしょうか?」
「夕食?」
「一般開放の日に、ミシェルちゃんが誘ってくれたんです」
「聞いてませんか?」とクリスは不安げに尋ねた。聞くも何も、コールダー家ではそれどころではなかったのだ。それにまた成長した彼女に会ったら、次はどんな反応になるか予想がつかない。
「帰ったらミシェルに聞いておこう」
「よろしくお願いします」
鼻歌交じりで自分のデスクに戻るクリスを見やった。祭りの日、フェリックスと別れたのち会う約束を交わした二人に複雑な心境だったのは、クリスとお似合いだと一瞬感じたからだろうか。
中身はどうであれ、容姿は立派な大人だ。しかもとびきり美人の。これから彼女目当てに男達が群がるに違いない。
フェリックスは、夕べの出来事を思い出して不安に駆られた。また発情期らしき発作が起きて、豹変した彼女が男を誘ったら……。ふしだらに育てた覚えはないが、こればかりは本人に罪はない。ミシェルにまだ人間の本質を見抜く余裕はないだろうから、彼がそばで見定めておかなかればならない。
今日は警衛隊の訓練が行われる予定なので、フェリックスも戦闘服に着替えようとしたところへドアをノックする音がした。
「入れ」
形だけ敬礼したマシューは、入って来るや否やニヤニヤと笑い出す。
「なんだ」
「今度の女は相当激しいようだな。ほどほどにしないとミシェルに嫌われるぜ?」
「なにを訳のわからないことをぬかしてる?」
ミシェルと同居してから女性関係は一切ない。だから、疚しいこともない。
「派手に痕を付けられて往生際が悪いやつだ」
痕―?
はっとしたフェリックスは、ミシェルの歯形が散りばめられた胸をシャツで隠した。その様子は、恥じらう乙女の仕草に似てマシューの失笑を買う。
「見るな」
「お前さんが勝手に見せたんだろうが」
「言っておくが、モーガン軍曹が想像しているようなことではない」
「へいへい。せいぜいお嬢ちゃんにバレんように上手くやれ」
その本人が付けたんだがな。
フェリックスは心の中でぼやいた。事情を話せば、ミシェルが犬である事実も触れなければならない。言ったところで誰が信じると言うのか。
マシューを部屋からさっさと追い出すと、戦闘服に袖を通す。




