その9
ミシェルはフェリックスを送ったあと、しばらくの間ソファーで休むことにした。やはり徹夜が堪えて次第に瞼が重くなる。
ふっと目を醒ました頃には、とっくに起床予定の時刻を過ぎていた。ほんの十分くらいうたた寝のつもりがすっかり熟睡してしまう、これが『二度寝』の恐ろしさである。
彼女の家から部隊まで歩いて十五分、走れば充分に間に合う距離だ。昨夜のうちに用意しておいた服に急いで着替える。混み合うと聞いていたので、動きやすいチェック柄のキュロットと黒のカットソーにしてみた。風が冷たいので黒タイツを穿いてニットコートを羽織る。犬耳対策につば付きニット帽も忘れずに被った。
彼女なりに精いっぱいお洒落して家を出ると、絶好の日和で行く先々人で溢れている。走るどころか、自分の意思で歩くこともままならない状況だ。人の波に飲まれて、やっと部隊の正門へたどり着いた頃にはかなりげんなりした。
「ミシェルちゃん!!」
大声で名前を呼ばれて辺りをキョロキョロ見渡すと、クリスが両手を頭の上で振っている。やってきた彼は、ラフな普段着ではなく上着の腰を黒いベルトで締めている凛々しい姿だ。軍帽のせいか厳めしく感じたが、鍔をくいと上げるといつもの笑顔があったので安堵した。
「ようこそ、我が部隊へ」
「クリスさん、こんにちは。すごい人ですね」
「毎年こんな感じで警備も大変でさ」
「だから、いつもの軍服と違うんですか」
「今日はお祭りだから正装でお出迎えってわけ。どう? カッコいい?」
期待の色で輝く青い目にミシェルは頷いた。これはお世辞でもなく彼女の本心で、初めて見たクリスの軍服姿は新鮮で素直にかっこいいと思う。
「これはなんですか?」
彼女の視線がベルトから吊るしているホルダーに注がれていたので、「ああ、これ?」とクリスが軽く叩く。
「もしかして『けんじゅう』……?」
「まさか。こんな人ごみじゃぶっぱなせないよ。これは……」
「三段伸縮型警棒って言ってな、銃の代わりに俺達を護るやつだ」
「俺が説明しようと思っていたのに」と、マシューに横取りされたクリスが口を尖らせる。これまた見慣れないマシューの正装にミシェルは興奮した。
「マシューさん、素敵です!!」
「そうかあ?」
どんな男でもそれなりに凛々しく見える、これがいわゆる『制服マジック』である。それはこのマシューにも適用したらしく、照れ臭そうに赤毛の短髪を掻き乱した。
褒められて気を良くしたマシューに、クリスは棘のある一言を放つ。
「ミシェルちゃん、優しい嘘は時に残酷だよ?」
「そうだ、ミシェル。こいつのために良くないぞ」
「モーガン軍曹に言われたくないですよ!!」
男二人の漫才みたいな会話に、ミシェルはつい笑みがこぼれる。
「お二人は仲がいいんですね」
「「はあ!?」」
クリスとマシューが生ごみのような目で互い顔を見合わせた。この二人がいるということは、近くにあの人物もいるかもしれない。そんな淡い期待をこめて尋ねてみた。
「あの、たいちょーさんは?」
「もうすぐ軍用犬の催しがあるからそっちへ行っている。一緒に行くかい?」
軍用犬と聞いてミシェルの頬が引きつった。フェリックスには会いたいが、他の犬と戯れる彼は見たくない。顎に手を当てて考える彼女だが、前者が勝ってクリスとマシューに案内されて会場へ歩いていった。
目的の場所に近づいてくると、スピーカーを通して女性の声が聞こえてきた。控え室となる簡易テントにクリス達が入っていくが、『部外者立ち入り禁止』の貼り紙にミシェルが躊躇する。
「どうしたの?」と、クリス。
「わたし、部外者なのでここで待ってます」
「隊長殿の姪っ子なんだから、ばっちり関係者だろうが」
マシューが手招きすると、ミシェルはおずおずと中へ入った。そこは特等席で間近に催しが見られる。
「皆さん、こんにちは。今から軍用犬の訓練をお見せします」
ヘッドマイクを付けたジェシカが観客に説明しながら進行した。障害物を飛び越えてタイムを競う競技や匂いを辿って行方不明者を捜し出す模擬訓練など、課題をこなす犬達に観客から歓声が上がった。
間近にいるミシェルも、本能が疼いて帽子の中で耳がピクピク反応している。
「お、そろそろ警衛隊長殿の出番だ」
マシューが指差した方向には、整列する軍用犬の前にやってくる長身の軍人がいた。軍帽を目深に被って顔は窺えないが、ミシェルには一目見て確信する。
たいちょーさんだ!!
フェリックスが笛を吹くと犬達が一斉に伏せる。ミシェルもつい従いそうになるのを辛うじて堪えた。
ミシェルは一瞬フェリックスと目が合った。彼の口元が綻んだのは見間違いではないと思う。
デモンストレーションは大盛況で、一仕事終えたフェリックスは真っ先に彼女の元へ向かう。
「来てたのか」
「マシューさん達が案内してくれました」
向かい合ったミシェルは恍惚の表情を浮かべた。
フェリックスの服装はマシュー達とほぼ同じだが、精悍な顔つきと長身にマジックは必要ないらしい。
「どうだった?」とに訊かれて、ミシェルは答えを躊躇した。
軍用犬は素晴らしかったが、同類して少々妬ける。だが、この日の為に彼等と訓練を重ねてきたに違いない。ここで否定すればフェリックスの苦労も無と化す。
犬と人間のどちらの感情を優先すればいいのか迷った結果
「みんな頑張ってましたね。ちゃんと言うこと聞いて偉いです」と、無難に返したがフェリックスはため息交じりに憮然とした。
「犬じゃなくて私だ」
「へ?」
意外な台詞に、ミシェルは目を白黒させて彼を見上げた。まさか、フェリックスまでそんなことを言い出すとは思ってもみなかったからである。
「たいちょーさんはいつもカッコいいです。いえ、その、今日はいつもより……」
「いつもより?」
ダークグリーンの瞳が先を促すと、ミシェルは出店のリンゴ飴みたいに真っ赤な顔で口ごもり俯いてしまった。
均整のとれた身体が軍服をより一層引き立ててせて、クリス達には悪いがやはり目の前の隊長が一番だ。
「昼前に時間が空くから一緒に観て回ろう」
「いいんですか!? わーいっ!!」
ミシェルが無邪気に喜ぶと、大きな手が帽子ごしに頭を撫でる。やがて、離れていくその手を彼女は名残惜しそうに目で追った。
フェリックスは、落ち合う場所と時間をミシェルに伝えると次の会場へ移動する。広い背中を眺めていると、隣に人の気配を感じた。
「こんにちは」と明るい声で挨拶する女性に、ミシェルも返す。
「ひょっとしてミシェルちゃん?」
「はい。えっと、あなたはさっき軍用犬の訓練をなさってた方ですね」
「わたしはジェシカ・ライアン、あなたの噂は聞いているわ。とても可愛い姪っ子さんね」
ジェシカは、鼻が利くミシェルが気になる匂いを二つ漂わせていた。複数の犬と人間のメスの匂い。
姪じゃないのに、と心の中で呟いた。
「たいちょーさんがわたしの話を?」
「ううん。コールダー隊長はご自分のことはおっしゃらないわ。ご自宅ではどんな感じ?」
逆に質問されて、ミシェルの頭の中に浮かんだのは寝起きが悪い不機嫌な顔とかソファーに座って書類を読む真剣な眼差し、そして抱き締められて分かった厚い胸だった。




