その8
ミシェルは、フェリックスの胸の中でひとしきり泣いた。お陰で彼の上着は湿り気を帯びている。これくらいクリーニングに出せば涙の跡はすぐ消えるが、ミシェルの悲しみは一生残るに違いない。
散々泣き尽くしたら急に空腹を覚えて、ミシェルは彼から体を離した。
「お腹空きましたね。お料理、温めてきます」
「ちょっと待ってろ」
ミシェルが手の甲で涙と鼻水を拭ったもののまだ残っている。フェリックスは、ティッシュの箱から数枚引き抜いてミシェルの顔をなぞった。
目を瞑り、拭くたびに「んー」と声を漏らす彼女はまるで幼い子どもだ。そう数か月前まで踏み台に乗ってもフェリックスの胸まで届かなかったのに、見下ろせば端麗な顔がすぐそこにある。
拭き終わると、栗色で艶やかな髪を愛おしく撫でた。
部下は育てても、人の子は経験がない。物事の善悪は教えられても、人の心まで図れない。血の繋がった親子であれば踏み込める問題も、ミシェルにはどこか遠慮があったのかも知れない。
「たいちょーさん、まだですか?」
いつまでも撫でてほしいところだが、温めた料理も気になる。ミシェルは目を開けて尋ねた。
「よし、いいぞ。飯にしよう」
食卓の席に着いた二人は、ようやくおふくろの味とやらにありつけた。
翌日のミシェルは、アランのと別れがよほど堪えたのか元気がなかった。
軍服に着替えたフェリックスがキッチンを覗くと、朝食の支度も鼻歌交じではなく静かである。
泣き腫らした真っ赤な瞳は虚ろで、食材を刻む軽快な包丁の音もゆっくりだ。
「おはよう」
「おはようございます。もうすぐ朝ごはんができますよ」
やはり声が沈んでいた。
ここはひとつ、奥の手を使うか。
「ミシェル、これなんだが」とフェリックスが上着の内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「これは?」
「もうすぐ部隊の一般開放がある。来るか?」
「たいちょーさんの部隊……」
しばらく考えていたミシェルの顔がぱあっと輝く。
「わたしも行っていいんですか?」
「ああ。出店もあるし催し物も予定されている。時間が合えば私が案内できるかもしれんな」
たいちょーさんと一緒にいられる!!
喜びもつかの間、ミシェルは自身の尖った耳を思い出して落胆した。
「でも、この耳じゃたいちょーさんに迷惑が掛かるかも……」
「帽子をかぶればわかりゃしない。万が一ばれてもお祭り騒ぎで誤魔化せるだろうしな」
本音を言うとミシェルには来てほしくない。もし彼女が犬とばれたら、人々の好奇の目に晒されるのは耐え難い。しかし彼が切り出さなくても、遅かれ早かれクリスが誘うはずだ。
笑顔が戻ったミシェルを見ているとこれでよかったと思う。
「オレガレン少尉も誘ってくるから、初めて聞いたことにしておいてくれ」
「どうしててですか?」
怪訝そうに尋ねる彼女に、フェリックスは苦笑する。
「実は、お前を誘いたいと言ってきたのは彼が先でな。役目を取ったらがっかりするだろう?」
「了解です」
すっかり元気を取り戻したミシェルは敬礼した。その姿があまりにも愛らしかったので、クリスにフライングした罰悪さは見事に吹き飛んだ。
数日後、クリスは終日上機嫌だった。例の行事に誘われたとミシェルから聞かされていたが、どうやら上手くやってくれたようである。
「お付の部下はやたら機嫌がいいみたいじゃないか」
手荒なスキンシップにヘラヘラした笑いでやり過ごすクリスが、マシューには少々物足りないようだ。
「一般開放にミシェルが来る」
「そりゃ楽しみだ。もちろん、隊長直々にエスコートするんだろ?」
「時間が合えばな」
「合わせるくせに」
意地悪い笑みでこちらを見やる大男に見透かされて面白くない。
「やはり、オレガレン少尉に頼むとしよう」
すると、マシューは大きく両手を顔の前で振った。
「少尉殿じゃ役不足だ。お嬢ちゃんは可愛いから、男どもを追い払う番犬はもっと威圧的なやつがいい」
マシューはさも自分が適任と胸を張る。
こうして会話を交わす間も、イベントの警備関係の書類が机に山積みされる。フェリックスは軽く息を吐いて一番上にある書類を手に取る。「忙しくてなにより」と片手を挙げてマシューも任務に取り掛かった。
いよいよ一般開放の日、早朝の出勤にも関わらずテーブルにちゃんと朝食が置かれていた。昨夜、朝が早いから準備しなくていいと伝えておいたのに律儀なことだ。
「お早うございます。コーヒーはあとでお持ちしますね」
「わざわざ用意してくれたのか?」
「もちろん!!……と言いたいところだけど実は眠れなくて」
いざベッドへ潜ってみたものの、初めてのお祭りに目がギンギンに冴えてよく眠れなかったらしい。ミシェルは恥ずかしそうに笑ってタネを明かした。
「まだ時間があるから少し寝てるといい」
「はい」と返事をしたが、彼女はまだキッチンにこもっている。フェリックスが食事を済ませたところへようやく彼女が出て来た。
「サンドイッチ作ったんですけど、持っていきますか?」
「そうだな。頼む」
今日は忙しくなりそうなので、恐らく昼食に掛ける時間すら勿体ない。ミシェルは、ランチボックスにサンドイッチを手際よく詰めて小さいバックに入れた。
ミシェルの気の利いた申し出はとても有難かった。
それにしてもミシェルはいい子に育った。『育てた』というのは自惚れで、本来彼女が持って生まれた気質かも知れない。
「あとで警衛所に寄りなさい。場所はわかるか?」
ミシェルが首を左右に振ると、フェリックスは鞄からパンフレットを取り出してその場所に大きく赤丸を付ける。
「迷ったら近くの軍人に訊けば教えてくれる」
部隊の見取り図を難しい顔で彼女は眺めていた。
そして、そわそわしているのがここにも一人。廊下を歩いていると、クリスが遠くから駆け足でやってくるのが見えた。
「隊長!! ミシェルちゃん、何時ごろ来るんでしょうか!?」
ここ最近、顔を合わせる度に同じことを訊くクリスにフェリックスは正直うんざりしている。
「さあな。少し休んできたら遅くなるかも知れん」
「えっ!? また具合が悪いんですか!?」
クリスの顔色がさっと変わった。
「興奮して眠れなかったらしい」
「いやあ、実は俺も眠れなくて。ミシェルちゃんと俺が同じ気持ちなんて嬉しいなあ」
自分本位に解釈できるクリスに、フェリックスは呆れた視線を投げる。どこまでもポジティブなやつは羨ましい。
「おい、なんで軍服着用なんだ? これじゃ身動きとれんぞ」
開口一番、マシューが不平不満を漏らしながらの登場だ。やっと日の目を見ましたと言わんばかりの真新しい軍服に身を包んでいる。警衛隊員は不測対処に備えて常時、迷彩柄の戦闘服とミリタリーブーツでの勤務となる。
なので、軍服を着る機会が滅多にない彼等にとっては窮屈この上ない。しかも機能性無視の素材とデザインは、細身のクリスはともかくガッチリタイプのマシューには養成ギプス並みの不快感を与えていた。
「つくづく似合わないな」とクリスが呟いたのをマシューは聞き逃さなかった。
「生意気な上官には教育が大事だ」
「俺を上官だと思っていないくせに!! ギャーッ!!」
クリスの絶叫が響き渡る廊下を、フェリックスは盛大なため息を残して立ち去るのだった。
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