その7
「やっと会えた」
目の前に現れたアランは軽く息を弾ませていた。ミシェルは彼の想いを知っているだけに目が合わせられない。
「もう、あんなことしないからちょっと話せる?」
ミシェルはこくりと頷いた。
「じゃあ、あっちのベンチに座ろうか」
アランが首を巡らした方向に、買い物客が休憩するベンチがあった。幸い先客がいなかったので、歩き始めた彼から少し離れてミシェルもついていく。
二人腰掛けたものの会話はなく沈黙が続いた。ミシェルの心臓はドクンドクンと大きく波打ち、隣のアランに聞こえるのではないかと気が気ではない。
曖昧な態度がアランに恋心を抱かせたなら謝ろう、ちゃんと自分の気持ちを伝えなくては。ミシェルは意を決して重い口を開いた。
「アランの気持ちは本当に嬉しいんですけど、わたし……」
「俺、引っ越しするんだ」
「え?」
アランは彼女が言い終わらないうちに言葉を被せてきた。ミシェルは引越しの意味を理解していないのかきょとんとしている。
「引っ越しって家を代わることですよね? 落ち着いたらまた遊びに来て下さい」
「もうこの街にも来ないだろうな。ここからだいぶ遠い所だから」
寂しげに笑うアランに、ミシェルはこの台詞に隠された重大な事実を悟った。
「ひょっとして、もう会えないんですか?」
「多分……」
彼女にとって『引越し』とは、せいぜい隣町に買い物に行く感覚しかなかった。だから、金輪際の別れを告げられたようで胸が痛い。
「引越しはいつ?」
「明日の朝だよ」
「そんな……」
心の準備もできていないミシェルは、言葉が見つからずただ立ち尽くす。
たいちょーさん、アランになんて言ったらいいんですか?
人間の奥深い感情にまだ慣れていないミシェルはおおいに戸惑った。この場にいない黒髪の隊長にすがる思いだ。
「まあいろいろあったけど、ちゃんと別れの挨拶したくてさ」
アランは堰を切ったように語り始めた。
ミシェルと初めて市場で出会ったのは、父親の転勤で引っ越しが決まった翌日だったのだと。
別れを告げた途端、友人たちが飽きたおもちゃを捨てるみたいに去っていくのではないかと怯えていたそんな時である。
楽しそうに買い物をする彼女を見掛けた。明るい笑顔は、生まれ育った町を去る寂しさと、見知らぬ土地で暮らす不安で押し潰されそうな彼には眩しく映ったという。
アランはミシェルに手を差し出した。意味が解らず戸惑う彼女の手を取り握手する。その手は冷たく、恐らくミシェルが来るのをずっと待っていたのだろう。いつ出会うか分からないこの場所でいつまでも。
「アランは今でもわたしの大切なお友達です」
ミシェルはもう片方の手をアランのそれに重ねた。包み込む温かさがたまらなく、アランはゆっくり手を振りほどいた。
「最後に会えてよかった。コールダー隊長によろしく伝えておいて」
「はい。アランもお元気で」
アランはくるりと背を向けて歩き出した。遠ざかってもミシェルがまだ見送っていると背中で感じながら。
敵いっこないだろ? 相手はコールダー隊長だぞ。
ミシェルの笑顔は常にフェリックスに向けられていた。人を好きになる気持ちは誰にも止められない。それが禁断の関係だろうが……。
風の噂で、ミシェルはあのコールダー隊長の姪だと知って驚愕した。冷血だの鬼だの、周りの反応はあまり宜しくない軍人と同居して上手くやっていけるのか心配でたまらない。
アランなりに気を使ってミシェルを庇護したら、逆に怒りを買ってしまい唖然とした。これが二人の初めての喧嘩だった。
このあとアランは自分なりに反省したがどうも納得できないところもある。
親しい者を批判されて快く思う者はいないだろうが、それにしても彼女の言葉はまるで好きな人を庇うような含みがあった。
まさか……だよな。伯父と姪の恋なんて少女漫画じゃあるまいし。
いくら否定してもいざミシェルを目の前にしたら、疑問が胸の中で悶々と広がり心が掻き立てられた。ただでさえアランに残された時間はあまり多くない。それで、あのキス未遂事件である。
ミシェルはともかく強面の軍人に限ってあり得ないと思っていたら、フェリックスがわざわざアランの高校まで押しかけてきた。しかも部隊から直行してきたのか、軍仕様のコートを羽織り校門の前で待ち伏せしている。想定内の行動だったがそれでも心臓に悪かった。
いくつか言葉を交わすにつれて、怖かった印象が薄れていく代わりに違う部分が見え隠れする。
それはミシェルに対する過剰な愛情、最初はそう感じていたアランは次第に違和感を覚えた。
ひょっとしてコールダー隊長もミシェルのことを……?
フェリックスの言い分は、人間に捨てられた彼女がまた人間に傷つけられるのではといたたまれなかっただけなのだ。
ミシェルの正体を知らないアランはきっぱり諦めることにしたのだった。
アランの姿が人ごみに交じりやがて消えていくと、ミシェルは空を仰いだ。胸がキュンと締めつけられて痛い。
人との別れを初めて経験した彼女は重い足取りで帰っていった。
重い足取りは帰路につくフェリックスも同じだった。今日はいつもより長く犬の訓練場にいたので、シャワーを浴びて匂いは消えた……はずである。なにせ、あの姿になってから聴覚、嗅覚が鋭くなっている。
「ただいま」
玄関のドアを開けると、懐かしい匂いがフェリックスの鼻まで漂ってきた。料理のリクエストに早速応えてくれたミシェルに口元が綻ぶ。
だが、出迎えた彼女は浮かない表情だ。
「お帰りなさい」
「まだ怒っているのか?」
ミシェルは俯いたまま首を左右に振った。
「アランが……」とかすれた声に、フェリックスの心臓が跳ねる。何があったと尋ねたい気持ちをぐっと抑えて彼女が話すのを待った。
「アランがこの街を出ていくそうです」
「いつ?」
「明日の朝です。わたし、何も言ってあげられなくて」
項垂れて華奢な肩を震わせる彼女に、フェリックスもなんと声を掛けていいのか言葉に詰まる。
あいつ、それならそうと一言言ってくれれば……。
事情を知っていれば違う結末もあっただろうに。
「もう会えないのに、アランの気持ちに応えてあげられませんでした」
「大切なのは自分の気持ちだ。お前は悪くない」
「たいちょーさん、こんな時人間ならどうするんですか?」
琥珀色の大きな瞳を潤ませる少女を切なく見下ろす。
一体自分は何をしてきたのか。マシューの言う通り、口を挟まず彼女達に任せておけばお互い幸せになれたかも知れない。なのに、ささやかな初恋もぶち壊すなんて。
あの時はミシェルの涙を見た途端頭が真っ白になり、大人げない行動へ走ってしまった。今となっては言い訳だが。
『名前負け』とはこういうことをいうのか。しみじみ痛感した彼は、謝罪の言葉より早く細い身体を抱き締める。
「すまん」
「今の私にはこれが精一杯だ」厚い胸を通して聞こえる低い声に、ミシェルはむせび泣いた。温かい軍服の胸、頭を撫でる大きな手。これで充分だ。
「たいちょーさん」
何度も呼ぶ彼女の頭を撫でる度に、犬の耳が反応してぱたりと伏せる。
思い切り泣いて、明日からまた元気なミシェルでいてくれ。
牛タンの赤ワイン煮が登場するときは、やはり特別な日になるらしい。たとえば、喜ばしい出来事やほろ苦い思いとか……。




