その6
今にもよだれが垂れそうなクリスに見つめられて、フェリックスは落ち着かない朝食を終えた。
レタス、トマト、チーズ、ハムをパンで挟んだだけなのに美味しい。気分はどうであれ手を抜かないミシェルに感心した。
コーヒーを飲んで一息ついたところへ、書類の整理をしているクリスが尋ねた。
「一般開放の日、ミシェルちゃん来ますか?」
「実はまだ話していない」
誘えば喜ぶだろうが、あの耳で人前に出るのはリスクが大き過ぎる。話すかどうか二の足を踏んでいたらあの騒ぎだ。
「じゃあ、俺が誘ってもいいですか?」
瞳を輝かせる部下を横目で見る。アランが遠ざかったと思ったら今度はクリスだ。しかも、隊長付はミシェルより共に過ごす時間が長いので無下にできない。
渋々承諾すると、クリスは「有難うございます!!」と嬉しそうに敬礼した。
昼過ぎ、フェリックスは犬舎へ向かった。途中、ミシェルのふくれっ面が目の前をかすめたが頭の隅へ追いやった。
警衛所から裏道を抜けて五分ほど歩くと軍用犬の訓練を行う運動場がある。赤毛の若い女性が笛を吹いて犬達を訓練させている真っ最中だった。
彼女が噂のジェシカで、フェリックスに気付くとショートカットの髪を靡かせて走って来た。
「コールダー隊長、お待ちしておりました」
つぶらな瞳に元気いっぱいの彼女もまた犬に似ている。数匹の軍用犬見習いがフェリックスの足元へ寄って来た。昨日の今日で、またミシェルの機嫌を損ねては大変と、彼が『待て』の号令をかける。
「さすがですね。この子達、わたしよりもコールダー隊長になついちゃっているんですよ」
命令通り座って待つ犬達を、ジェシカが見渡して苦笑した。
「隊長も犬を飼っていらっしゃるんですか?」
「ああ」と言ってすぐ「いや、実家で飼っていた」と訂正する。犬耳のミシェルがつい普通の犬とだぶったのだ。
「道理で扱いに慣れていらっしゃるんですね」
ジェシカは話している間も近くにいる犬の頭を撫でている。彼女は部類の犬好きで、入隊した当時から軍用犬係を希望していたと聞いていた。
犬を意のままに操る華やかさに目を奪われがちだが、勤務内容は想像以上に大変だ。犬舎の掃除や食事の支度、健康管理など慌ただしく時間が過ぎていく。おまけに、犬は言葉を発しないので意思の疎通にも骨が折れる。動物相手にごまかしは聞かないので、途中で職種替えを希望する者も珍しくなのだ。
一方、ジェシカにとってはまさに天職で、彼等に囲まれて過ごす毎日が楽しくて仕方がない様子が窺える。
勿論、世話できるなら犬種は問わない。あの獰猛なド―ベルマンを「可愛い!!」とすり寄る彼女だから、強面のフェリックスにも懐くのだとマシューが大笑いしたこともあった。
「ライアン軍曹は、本当に犬が好きなんだな」
「コールダー隊長こそ犬がお好きですよね?」
頷く彼にジェシカは満面な笑みで見つめる。
この二人の様子を遠くから傍観する男が二人。
「隊長、楽しそうですね」
「隊長殿も人の子ってか。見ろ、俺達では決して拝めない穏やかな目だ」
クリスとマシューが建物の陰から窺っている。こっそりのはずが、マシューに至っては既に丸見えだ。
「まさか、ライアン軍曹に気があるんじゃ……」
「そりゃないな。あいつの好みじゃない」
マシューが断言する。
「どちらかというと、軍用犬が気になっているみたいだぜ」
「犬の方ですか!? ライアン軍曹も結構可愛いのに!?」
「犬好き同志、波長が合うだけで女と見ているかどうかも怪しいもんだ」
屈託のない笑顔に天然のジェシカは、独身隊員の間では人気がある。その彼女を異性として見ないのは、フェリックスの目が節穴なのかそれとも理想が高いのか。
そのミシェルは市場へ来ていた。人目につくにくい夜に買い物をするのだが、どうしても今夜の夕食はフェリックスの好きな料理を作りたかった。
それは牛タンの赤ワイン煮。
この前、リビングでミシェルが料理の本を眺めていたら、フェリックスが覗きこんできた。
「勉強熱心だな」
「新しい料理に挑戦しようと思いまして。何か食べたい料理がありますか?」
「そうだな。牛タンの赤ワイン煮が食べたい」
「牛タン……ですか?」
ミシェルが眉をしかめた。市場の肉屋で見たことはある。牛の舌はこんなに長いのかと驚愕すると同時に、こんなグロテスクなものを食する人間の心理を疑ったものだ。
理解に苦しむミシェルをよそに、フェリックスは話し始める。
「特別な日に必ず出てくる我が家の定番料理だった」
三歳上の姉はミシェル同様、牛タンを嫌がり母親を手伝おうとしなかった。そのくせ、出来上がった料理はがっつきフェリックスを呆れさせた。
ここ数年、帰省もしておらず『お袋の味』も薄れかけている。話をしていると無性に恋しくなるものだとフェリックスが小さく笑った。
帰省できない理由は彼の経歴にある。軍生活の大半は特殊部隊で過ごしたとマシューから聞いて知っていた。どんな仕事をするのかと尋ねると、マシューは寂しげに笑うだけで答えてくれなかった。
「そいつは言えねえ。時が来たら隊長殿が話すだろうよ」
つまり、フェリックスが言うまで訊かないことだと釘を刺したに違いない。警衛隊長になった今が一番平和なのだろう。
だから、頑張って作ってあげようと思っていた矢先、軍用犬事件が勃発してしまったのだ。朝、起こす大事な役目を怠った謝罪として、牛タンの赤ワイン煮を今夜決行することに決めた。
ニット帽を深く被って耳を隠し、いざ市場へ繰り出す。陽が高いうちに市場に来たのは久しぶりで、眩しさに目を細めた。
「よお、ミシェルちゃん!! 元気だったかい?」
「あ、八百屋のおじさん。こんにちは」
「まあ、ミシェル。久しぶりね」
「花屋の奥さん、ご無沙汰してます」
歩けば、次々と店の人達が声を掛けてくる。
「具合が悪かったんだって? もういいのかい?」
肉屋の前にやって来ると、主が心配そうに訊いた。
「お陰様で元気です。そうだ。この間のアレ、ありがとうございました」
「なあに、お安い御用よ。で、今日は何かな?」
「牛タン、ありますか?」
「あるよ。スライスしなくていいのかい?」
「赤ワイン煮を作るんです」
「だったら、塊だな。皮は剥いでおくよ」
彼は冷蔵庫から牛タンを取り出すと作業台に置いて皮を剥ぎ始める。ミシェルは、その工程をなるべく視界に入れないように主と会話した。
うぅっ……。これもたいちょーさんのため、我慢しなきゃ。
「それにしても、凝った料理をするんだね。何かいいことあった?」
その逆である。ミシェルは罰悪さに曖昧に返事して誤魔化した。代金と引き換えに主から品物を受け取ると、次の買い物へ向かう。
「えっと、次は八百屋さんか。さっき通った時に買っておけばよかったな」
牛タンが頭から離れず八百屋を素通りしてしまった。またもと来た道を引き返そうとした時だ。赤褐色の髪の少年がこちらを見つめている。見覚えのある顔にミシェルが固まった。
「やあ、ミシェル」
「アラン……」
無意識に手がニット帽に伸びる。この耳の原因は彼のキス未遂にあるからだ。




