その5
フェリックスはいつもと変わらぬ朝を迎える……はずだった。
寝返りを打って体が窓際を向いた時だ。カーテンを通して差し込む朝陽がやけに明るい。寝起きの悪い彼も違和感を覚えて、ベッドの中から時計をまさぐった。ぼんやりした視界に映ったのは、とっくに過ぎている起床時間。
「嘘だろ!?」
一瞬にして顔が青ざめて跳ね起きた。
毎朝ミシェルが目覚まし代わりだったので、アラームはセットしていなかった。その彼女が役目を放棄すれば完全にアウトである。
もはや一分一秒も無駄にできない状況に、フェリックスは大いに焦った。ベッドに寝間着を投げ捨てて、素早くワイシャツとスラックスに着替える。こんなに急いだのは新兵以来だ。
ネクタイを結びながらリビングへやってくると、エプロン姿のミシェルが一瞥して背を向けた。
「なんで起こさなかった!?」
キッチンで皿を洗っているため聞こえていないのか。いや、ミシェルの頭に付いている耳がピクピクと動いている。明らかに聞こえているのに無視しているのだ。
これにはフェリックスもムッとして、カウンターに身を乗り出して叫んだ。
「ミシェル!!」
蛇口の水を止めた彼女がおもむろに振り向く。絵に描いたような不機嫌な顔だ。
「聞こえているなら返事をしなさい」
「聞こえませんでした、すみません」
嘘をつけ!! 耳が反応していたぞ!!
そもそも、人をあてにしたフェリックスに非があるのだから、彼女を責めるのは筋違いである。
苛立ちを抑えようとコーヒーをカップに注いだ。香ばしい香りに導かれて、落ち着きを取り戻したが過ぎた時間は戻らない。
「朝飯はいい。行ってくる」
上着を手に取り玄関へ向かうフェリックスに、ミシェルが紙袋を差し出した。
怪訝そうに受け取ると、彼女は「行ってらっしゃい」と小さな声で言った。
家を出たフェリックスが紙袋の中を覗くとクラブサンドが入っている。ミシェルは、朝食抜きになるのを予想して予め作っていた。つまり、意図的に起こさなかった確信犯である。
つい二日前まで「たいちょーさんの幸せはわたしの幸せ」と言っていたくせに、今朝は反抗的な態度だ。
これが俗に言う『反抗期』だろうか。
いや、違うな。多分原因はアレだ。
玄関のドアが閉まると、ミシェルは大きなため息をついた。起こさなかったのは、さすがにまずかったかも知れない。
何度も起こそうとしたが、その都度あの事件が頭にちらついてつい背いてしまった。
その事件とは、昨夜のことだ。
帰宅したフェリックスを出迎えたミシェルが鼻をひくつかせる。ついでにピンと立った耳が警戒を表していた。
「……たいちょーさん、女の人と一緒だったんですか?」
「女?」
フェリックスは今日の出来事を頭の中でなぞったが、心当たりがなかった。「なんのことだ」と返す彼を、ミシェルはとぼけていると捉えたのか頬を膨らます。
「ごまかしてもバレバレです」
「今日は一日中仕事だったし、どこも寄らず帰って来たんだぞ」
ミシェルに寂しい思いをさせまいと、急いで帰宅したのに心外である。
「絶対会ってます!! よく思い出してください」
詰め寄るミシェルに、フェリックスはもう一度記憶を辿った。外ではないとすれば部隊だろう。女性の軍人もいるし食堂や売店の店員もいる。すれ違うこともあるだろう。
ふっと頭に思い浮かんだのは、軍用犬係のジェシカ・ライアン軍曹だ。警衛隊は軍用犬の管理も担っていて、ジェシカはその一員である。
部隊は、毎年恒例の一般開放に向けて準備で忙しい。いくつかの職種がデモンストレーションを行うなか、警衛隊は軍用犬の模擬訓練を予定していた。
その前に、マシューと組み合った見物客が勝利したら、金一封を贈呈する案も出たがもれなく却下された。
閑話休題、ジェシカとは調整のため犬舎に出向いて立ち話をした程度だ。
「勤務の打ち合わせをしただけだ」
「やっぱり会ったんですね!!」
ミシェルがますます不機嫌になった。
「しかも匂いまでつけられてる!!」
「軍用犬係は香水はつけない。訓練に支障をきたすからな」
「『こうすい』? 『くんれん』? なんのことですか?」
「お前こそ誰の話をしている?」
どうも二人の話が噛み合わない。よくよく聞いてみると、彼が犬に囲まれていたのに腹を立てていたらしい。
犬好きの人間が分かるのか、それともミシェルに対する対抗意識か。彼の足に擦り付けたメス犬達の匂いがミシェルを不愉快にさせた。
メスはメスでも生物学の区分は大きく違う。
「犬相手にやきもきか」と、喉から出かかって慌てて飲みこんだ。口にすれば、火に油を注ぐだろうしミシェルが傷つく。
「私は警衛隊長だ。軍用犬の管理も仕事だから仕方がないだろう」
多少言い訳じみているが、それこそ仕方がない。
「ぐんようけん?」
「軍隊で捜索や警備、連絡などに使われる。私達の手助けをしてくれるパートナーだ」
「だったら、わたしも『ぐんようけん』になります!!」
最初の約束は番犬として傍にいることだったのに、今ではその役割は一つも果たしていない。
「……お前は犬に戻りたいのか」
「え?」
フェリックスにパートナーと言わしめる『軍用犬』が羨ましかったので、つい口からこぼれたのだ。
彼の思わぬ一言に、嫉妬でのぼせ上がったミシェルの頭はすっかり冷えた。
今の彼女には犬の耳が生えている。アランとのやりとりで「人間になりたくない」と一瞬でも願ったせいだろう。フェリックスのそばにいられるなら、どちらでも構わないのに心が揺れた。
沈黙が続いた。彼は困惑した表情でこちらを見ている。
「とにかく、しばらくは犬舎に通うことになる。いいな?」
着替えのため自室へ行ってしまったフェリックスを、ミシェルは呆然と見送るだけだった。
彼にとってはただの仕事でも、ミシェルにとっては毎晩クラブやバーに通うくらいの衝撃である。勿論、フェリックスとメス犬の間に間違いなど起こるはずもない。理屈では理解していても胸がざわついた。自分が犬に近くなったせいもあるだろう。
彼に近づく者は誰であろうと嫉妬の対象になり得る。恋する乙女の心情は、陽炎のごとく不安定だ。
これがミシェルのご機嫌斜めの理由だと、フェリックスは確信する。
フェリックスは、普段より二倍速で部隊への道のりを急いだ。いっそう走ろうかと思ったが、警衛隊長の全速力を街の人が見たら何事かと不安になるに違いない。
結局『走る』と『歩く』の中間で、若干の余裕を残して部隊へ到着した。
隊長室の席に着き、今まさに紙袋から朝食を取り出さんとした時にドアをノックする者がいた。
「オレガレン少尉、入ります」
今日の予定を報告に来たクリスが目を丸くする。
「隊長、今、朝食ですか?」
「ああ」
「ひょっとして寝坊……」と言い掛けたクリスは、フェリックスの鋭い一瞥に口を閉ざす。
「……じゃないですよね。俺じゃあるまいし、ははは」
クリスは引きつり笑いを浮かべながら、上官専用のカップにコーヒーを淹れて差し出した。
「美味そうですね。ミシェルちゃんの手作りですか?」
今にも食いつかんばかりに身を乗り出すクリスに、フェリックスはくるりと椅子を方向を変えて食べ始めた。




