その6
見守っていたと言えば聞こえはいいが、実際は狼狽えて何も出来ずにいた。
女の涙を見たのはこれが初めてではないが、計算や下心が見え隠れする過去の交際相手を見てきただけに、ミシェルの無垢なそれに慣れていなかった。
だから、少女に泣かれて大人が慰めの言葉一つ出てこない有様である。
「ひっく……、たいちょー……さん、ひっく」
ようやく涙は止まったが、今度はこみ上げるしゃくりで思う様に喋れない。立ち上がってキッチンへ向かったフェリックスの手には濡れたタオルが握られていた。
「顔を冷やした方がいい。明日は腫れて酷い顔になるぞ」
受け取ったミシェルが、火照った頬に押し当てると心地良さに声が漏れる。
「気持ちいい」
こちらを見たミシェルが小さく笑った。
真っ赤な目と震える華奢な肩。
彼女と出逢った雨の日が脳裏に蘇る。あの日もフェリックスを見上げる仔犬は、悲しげな眼をしてガタガタ震えていた。
犬か人間か。どちらで接すればいいのか考えるより早く、手を伸ばしてミシェルを抱き寄せた。
「たいちょーさん!?」
フェリックスの温もりに包まれて、また胸がキュンとなる。身を委ねると、彼の厚い胸から鼓動が伝わってきた。
たいちょーさんの心臓の音が聞こえる……。
トクントクンと規則正しく刻む音は、犬も人間も生きている証。
目を閉じて、しばらく聞き入ると気持ちがほぐれた。『泣く』という行為が、こんなに体力と心を削るとは思いも寄らずぐったりする。
そもそも、彼女自身こんなに泣くつもりはなかった。フェリックスの心情に、高揚した気持ちが上乗せして涙を誘ったかも知れない。
「泣いたらお腹空いちゃいました」
照れ臭そうに笑う彼女から体を離して、フェリックスは「飯にしよう」と向かい側に座った。
「お料理、温め直してきますね」
「ああ」
結局、料理は冷めてしまったが二人の絆は温まったようである。
三日後の夕方、家の呼び鈴が鳴ったのでミシェルが出ると、休暇から帰って来たマシューだった。その足でこちらへ来たらしく、旅行バッグを肩から提げている。
「よお、元気だったかい?」
「お帰りなさい!! お時間があるなら上がっていきませんか?」
「もちろんそのつもりだ」
ミシェルは、大声で笑うマシューにほっとした。墓参りに行ったばかりで、感傷的になっていたらどう接していいやら。
リビングに通されると、見覚えのある顔がどっかりソファーに座っていた。
「なにやってんだ、お前さん」
勤務が終わってお邪魔していたクリスだった。階級では部下なのに立場は下僕に近い彼は、マシューの登場につい条件反射で姿勢を正す。
マシューは辺りを見渡して、この家の主がいないのを確認するとニヤリと笑った。
「鬼の居ぬ間に上がり込むとはいい度胸してんな」
「ちゃんと隊長には許可を取っています。モーガン軍曹こそ、帰る家が違うでしょう!?」
ミシェルがキッチンで茶の準備をしているのを見計らって、二人は軽口の応酬を始また。
なんで、こうタイミング良く邪魔が入るかなあ。
アランとミシェルがデートしたと知って、クリスは完全に出遅れたと焦った。
だから、今日はマシューが来る前にその話をしていたら、「クリスさんとも一緒に出掛けましたよ」と笑顔で返された。
「あれは、花の苗を買いに行っただけだよ。しかも、市場だし」
「でも、二人きりでお買い物したら『でーと』なんですよね?」
「まあね」
「だったら、わたしはたいちょーさんとしょっちゅう『でーと』してます」
「君たちは親戚だろ? ちょっと違うんだよな」
「わたしとたいちょーさんは……」
ミシェルははっとして口を噤んだ。勢い余って、もう少しで二人の関係をばらしそうになる。
「とにかく、若い男と二人きりで歩いちゃ危険だよ」
「クリスさんは?」
「いや、俺も若いけどさ」
幼い子どもから「オジサン」と呼ばれる年頃になったクリスは憮然とするのだった。
クリスが回想で拗ねている頃、マシューが足元に置いたバッグからごそごそと何かを取り出した。
「ミシェル、お土産だ」
ティーセットを運んできたミシェルに、紙袋を手渡す。
「わあ、ありがとうございます!! 見てもいいですか?」
こくりと頷いたので、覗くと毛糸で編んだ帽子と手袋だ。グレーと赤、紺の三色で幾何的な模様が編みこまれて、無骨なマシューにしては可愛いデザインである。
恐らく、亡き娘を思い浮かべて買ったのであろう。早速、身に着けてみると温かい。
「帰る途中、見つけたんだ。これから、もっと寒くなるからちょうどいいだろ?」
「はい!!」
笑顔でもこもこの手袋を握ったり開いたりする様子に、マシューもご満悦だ。
「で、これは隊長殿に土産のコーヒー豆だ。この間、買っていったら、えらい気に入ったみたいだったからな」
「モーガン軍曹、俺のは?」
ミシェル、フェリックスとくれば……、期待に目を輝かせるクリスを一瞥して首を横に振る。
「なんでお前さんのを買わなきゃならんのだ?」
「ええっ!! ケチ!!」
口を尖らせて文句を言う彼に、マシューは大袈裟に肩をすくめておどけた。
「買ってくれる女を探すこったな。お前さん、結構モテるらしいじゃないか」
「クリスさん、すごいですね」
ミシェルが感心すると、クリスは顔の前で掌をブンブンと振って否定する。
「ち、違うんだよ、ミシェルちゃん!! モーガン軍曹、いい加減なことを言わないで下さい!!」
慌てるクリスを笑い飛ばすと、マシューはミシェルに向き直った。
「隊長殿なら、もっといい物を買ってやるだろうが」
「わたしは同じくらい嬉しいです!!」
同じくらいか……。
できれば、上官を出し抜きたかったが仕方がない。隣にいる若造の悔しがる顔を見れただけでよしとするか。
ミシェルは、大事そうにニット帽と手袋をテーブルに置いて時計を見やった。
「晩ご飯の支度、しなくっちゃ。お二人もご一緒にいかがですか?」
「えっ、いいの?」と一応リアクションしてみたクリスだが、こうなる展開は織り込み済みである。
「なんか悪いな」
「食事は大勢の方が楽しいですから」
今まで寄り付きもしなかったこの家に、ミシェルが来てから集会所みたいに人が集まり出した。彼女が意図していたわけではないが、美味い手料理と和む雰囲気がいいらしい。
もちろん、フェリックスも食費がかさむなど思っていない。ミシェルが喜ぶならそれでいいのだ。
「最初から目的はそれかい」
「そういうモーガン軍曹はどうなんですか!?」
「あの仏頂面を拝みにわざわざ来るか? ミシェルがいるから来るんだ」
「仏頂面て悪かったな」
背後から聞こえ低い声に、マシューとクリスは幻聴かと耳を疑う。振り向くと、コートをきっちり着こんだフェリックスが立っていた。
「お帰りなさい。まだご飯できていないんですが」
「手伝おう」
コートと上着をソファーに掛けて、シャツを腕まくりするフェリックスはまるで良き夫である。これまた、後れを取ったクリスが無理矢理二人の間に割り込んだ。




