その4
「ちょっとケンカしちゃって」
「理由は?」
「大したことじゃないです……」
アランは罰悪そうに白状したが、語尾は尻すぼりでよく聞こえなかった。フェリックスの噂話をしたらミシェルが怒り出した、などとは口が裂けても言えない。
「ミシェルは傷つきやすい。自分より周りの人間を優先する」
フェリックスの声に、上目遣いで窺うと眼差しが柔らかい。『冷血』とか『鬼隊長』などと怖いイメージがあるだけに意外だった。
やはり、ミシェルが言った通り本心は優しい人物なのか。この容姿からとても想像できないので、もっと彼を知りたいと思い切って今朝の行動に踏み出したのだ。
ミシェルはフェリックスを敬愛して止まないのは、そばにいてひしひしと伝わった。何故なら、必ず一回は話に彼が登場するからである。
サラリーマンの父と雰囲気が異なる黒髪の軍人は、同性のアランから見ても格好良かった。紺の軍服をここまで凛々しく着こなす大人を見たことがない。
修羅場を乗り越えた証である精悍な横顔に、学生のアランは自身が幼く感じて気後れした。
そんなアランの気持ちを逆撫でするかのように、瞳をキラキラさせて喋るので嫉妬に駆られてつい悪く言ってしまった。
敵わないって分かってるけど……さ。
目の前の山は、憧憬と嫉妬でうず高く積って登る気にならない。
二人の絆が強く、間に入っていけない疎外感にアランは面白くなかった。ミシェルと知り合った順番が逆ならどうなっていただろうか。
「ミシェルと暮らして長いんですか?」
フェリックスが一瞥した。
彼女と暮らして一年に満たないが、成長過程では見た目で五年ほど過ぎている。その期間は周りの人間の記憶からすっぽり切り取られて、一夜にして急激な成長を遂げたミシェルをごく自然に受け入れた。
異様な話だが、そもそも野良犬が人間の娘となってフェリックスの前に現れた時点で現実離れしているのだ。もし彼の頭が固かったらこの矛盾に苦しんだに違いないが、意外と順応性がある。でなければ、癖の強い警衛隊はまとめられない。
「コールダー隊長?」
名を呼ばれてフェリックスが我に戻った。
「暮らしてどのくらいかという話だったな」
「はい」
「幼い頃から知っているが暮らし始めたのは最近だ」
「そうなんですか」とアランが答えたが、声色はどこか半信半疑だ。
ここまで話してアランは高校、フェリックスは部隊へと分かれ道へ差し掛かる。
「じゃあ、俺はここで」
「気を付けて行きなさい」
一礼して別の道へ進む少年を見送ると、フェリックスも部隊へと先を急いだ。
フェリックスと別れたアランは、生徒がまばらな通学路を歩いていた。彼の出勤時間に合わせたものだから、早目の登校は閑散としている。
直接会って話をした感想は、ミシェルの言い分も分かるといった程度だ。充分に彼を理解するには時間がなさ過ぎた。
自分なら、身内を不快な思いをさせた男が朝一番で待ち伏せしたなら、怒鳴って追い返していたかもしれない。なのに、フェリックスときたら急ぐと言っておきながら、アランの歩調に合わせてくれた。『気を付けて行きなさい』と別れ際の声が耳に優しく木霊する。
大人の余裕では片づけられないフェリックスの接し方に、噂を鵜呑みにした浅はかさを恥じた。これではミシェルが怒るのも無理はない。
ミシェルに会って、もう一度話をしよう!!
そう決心して校門をくぐった。
「隊長、おはようございます」
「おはよう」
隊長付きのクリスに出迎えられて自分のデスクにビジネスバッグを置いた。朝はアランで部隊ではクリス、フェリックスの気が休まる暇がない。
「え? あの、何か?」
じっとこちらを睨む上官に、妙な汗が噴き出した。
「いや、なんでもない」
なんでもないという眼じゃなかったよな。
隊長のサイン待ちの書類をそっとデスクに置いて、さっさと退散するクリスと入れ違いにマシューがやってくる。
また厄介な部下の登場にフェリックスは眉を顰めた。
「よお、コールダー隊長。ちょいと相談があるんだがな」
「金なら貸さんぞ」
「そんなんじゃねえよ。二、三日休暇がほしい」
小さく笑うマシューに、フェリックスは何かを思い出して電子カレンダーに目をやる。
「今週末でいいか?」
「ああ」
暗黙の了解で話を進める二人に、クリスは隣で仕事をしていると
「オレガレン少尉、モーガン軍曹のシフト調整を頼む」
「了解しました」
「悪いな」とらしくない礼をクリスに言って待機室を出ていった。マシューの頼みに、いつもは不平を漏らす彼も今回ばかりは黙って従う。
「もうそんな時期ですね」
クリスがしみじみ言うと、フェリックスは窓の外に視線をやった。枯れ葉も落ちて寂しくなった木々が見える。
今年はいろいろ有り過ぎて、部下の大切なこの時期を忘れていた。それはフェリックス自身も関わった悲しい出来事だった。
夕方、学校が終わるや否やアランは市場へ向かう。月に一度開かれる夕市にミシェルが来ているからだ。人ごみを縫って市場を探し回り、ようやくそれらしき人物を発見した。名を呼ぼうとしたが、がたいの良い男が先客として隣にいたので様子を窺う。
アランの予想通り、ミシェルが人の波に飲み込まれながら市場を歩いていると、ふくよかなオバサンに弾き出された。
「マシューさん」
転びそうになったところを支えてくれたのはマシューだった。
「よお。それにしてもすごい人だな」
二人は混雑を避けて、割と空いている路地へと移動する。
「マシューさんもお買い物ですか?」
「まあな。ミシェルに聞きたいことがあったから丁度よかった」
「なんでしょうか?」
「女が好きそうな物ってなんだ?」
「好きそうな物……」
しばらく考えたが、今のミシェルにこれといった物が見当たらなかった。だが、「ない」と率直に答えるにはあまりにもマシューの目が寂しそうだった。
「お花がいいです。ぱあっと元気が出るような花束がほしいです」
「花か。そうか、花がいいか」
何度も呟いて彼女の頭を優しく撫でるマシューはやはり寂しそうだ。
「今度の週末、うちでお夕飯食べませんか?」
「その日は野暮用でな。ちと遠い所へ行くから休暇を取っているんだ」
「どこかへお出かけですか?」
「女房と娘の墓参りさ」
庭造りでマシューが話してくれたことを思い出して、ミシェルもしんみりとなる。普段は豪快で明るい彼だが、背負っている心の傷に必死に耐えていたのだ。
物心ついた頃から独りだったミシェルは、親の愛情や家族の温かさを知らない。だが、フェリックスと暮らして常に誰かそばにいる安心感は得ることが出来た。
部隊では多くの者に囲まれているが、ふと独りになった時の虚しさはいかほどか。それはミシェルが身をもって分かっている。
「マシューさん、わたしとお花を選びましょう!!」
重い空気を一蹴する明るい声に、マシューが照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「それは助かる。なんせ、花屋に行く柄じゃねえから」
どちらともなく二人は手を繋いでまた市場へと消えていく。外は肌が痛いほどの冷たさなのに、手袋をしていないマシューの大きな手は温かい。
その温もりは、フェリックスと同じで心も温かくなるのだった。




