その3
ギラギラした活気盛んな男子高生が、ミシェルみたいな美少女を前にして心穏やかなはずがない。甘いマスクに隠れている下心ありげな目は、フェリックスの見間違いではないだろう。
「あの……」と、ミシェルが口を開いた。
「変なこととは、具体的にどのような?」
フェリックスは言葉につまった。反射的に否定してみたものの、ミシェルは何一つ理解していなかったのである。その場の空気で良い意味ではないと判断しただけで、内容までは詳しく知らなかった。
下手に説明して寝た子を起こす真似はしたくない。期待と好奇心で輝いた瞳に、フェリックスは慎重に言葉を選んだ。
「体を触られたとか、手を握ってきたとか」
「手はわたしから握りました」
「なに!?」
フェリックスの声と眉が跳ね上がる。
「出掛ける時はいつも、たいちょーさんが手を繋いでくれますよ?」
「あれは人混みではぐれないようにだ。ほかの男に触れさせるな」
ミシェルは罰悪そうに「マシューさんとクリスさんもダメでしたか?」と尋ねた。
アランだけでなく部下二人にもか!?
線の細い若者はともかく、マシューの大きく分厚い手に包まれたら握り潰されそうだ。
「モーガン軍曹は良しとして、オレガレン少尉はだめだ」
マシューは良くてクリスは駄目。新たな法則にミシェルの顔は苦悩に曇る。
「どこで分ければいいんでしょうか? たいちょーさんはどちらですか?」
しつこく訊いてくる彼女に、彼はまた返答に困った。
「私はいいに決まっている。お前の保護者だからな。他の男だと勘違いしてしまうからやめておけ」
「勘違い?」
「ああ。自分に好意があると期待する。その気がないなら希望を持たせるな」
「わたし、みんな好きです」
「好きという意味が違う。恋愛感情があるかどうかだ」
的を得ていないのか、きょとんとしたミシェルにはっとした。人間の姿になって長いが、実はまだ感情は犬のままなのではないか。だったら、発情期以外は恋愛感情は存在しない。
そもそも生物界で、年がら年中発情しているのは人間だけかも知れないのだ。発情期真っ盛りのアランとクリスが、ミシェルに群がる光景を想像するだけで腹立たしい。
「う……ん」とミシェルは小さく唸った。頭が混乱して先が考えられない風である。
「恋愛感情ってどんな感じですか?」
「胸がドキドキする」
「ドキドキ……。走った後はそうなりますけど」
「それはただの動悸だ。異性のそばにいて、それを感じれば特別な感情があると言えるかもな」
幸か不幸か、ミシェルにはまだ経験がなかった。
「たいちょーさんは誰かに恋愛感情を持ったことありましたか?」
当然の流れで訊かれたフェリックスに間が空いた。
正直、女性に不自由したことはない。こちらにその気がなくても向こうから寄ってくる、なんて言ったら世の男達を敵に回すので口外しないが。だから、彼から猛アタックをしたという経験はなかった。
「まあ、それなりに」
言葉を濁すと、「さすがたいちょーさんですね!!」なんて輝いた琥珀色の瞳に胸が痛い。
「わたしもにもそんな人が現れるといいなあ」
うっとりしたミシェルの台詞に、彼の胸が更にズキッと痛んだ。恋人候補など条件は揃っている。あとは、彼女が恋愛感情を持てばいつでも扉は開くのだ。
「ミシェル」
「はい」
「シャワーを浴びてくるから、朝食の支度を頼む」
声のトーンが低くなりリビングを去るフェリックス。ミシェルは見送ると、彼が教えてくれた恋愛感情とやらを考えてみた。
クリスやマシュー、アランといてもドキドキはしない。強いて言えばフェリックスの方が楽しい。現に彼と話しているだけで、アランとの気まずい雰囲気を忘れていた。
やっぱり、たいちょーさんのそばがいいなあ。
ミシェルは上機嫌で朝食作りに腕を振るう。
一方、フェリックスは迸るシャワーを全身に浴びて悶々とした気持ちを洗い流す。最近、どうも栗毛の同居人と心が噛み合わない。体は大人なのに考えは純粋な少女のギャップに戸惑う。
出会った頃はなんの心配もなく暮らしたのに、今では悩みが尽きなかった。そして、アランとデートした日もまた然り。結局、何があったのか論点がずれて訊き出せずにいた。
身支度を済ませたフェリックスが食卓につくと、紺の軍服に身を包んだ姿にミシェルは心躍る。先程までだらしなくリビングをうろうろしていた同一人物とは信じ難い。黒髪からほのかに香る整髪剤が、軍人への切り替えなのだろうか。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取り一口飲むと、いつと微妙に違う味に気がついた。
「豆を変えたのか?」
「さすがたいちょーさんです!! この間、市場に寄って買ってみました」
鼻が利く彼女が買ってくる食べ物にハズレはない。未知なる味に出会える楽しみはあるが、ミシェルが選んでくるほとんどがフェリックスの好みだ。
常に彼中心で回っているが、そのうち他の男と付き合えばフェリックスなど見向きもしなくなるに違いない。保護者と言っても所詮あかの他人、いやあかの犬だ。
「お気に召しませんでしたか?」
表情を一瞬曇らせたフェリックスだが、「悪くない」とまたカップに口を付ける。気を良くしたミシェルは得意げに自分もコーヒーを飲んだ。ブラックの彼に対して、ほろ苦さに慣れていないミシェルはミルクと砂糖は多めに入れる。もはや、コーヒー本来の風味は消えているが個人の問題だから気にしていなかった。
「今夜は早く帰れると思うから、夕食は家でする」
「了解です」
すっかり元気になったミシェルが玄関まで見送る。ドアを閉めた先には、制服姿の男子高生が門の外に立っていてフェリックスに頭をちょこんと下げた。
「おはよう」
「おはようございます」
登校前に急いでこちらへ寄ったのだろうか。軽く弾んだ息が白い。
「ミシェルは中にいる」と、気を利かせて言ったのだが、アランの口から意外な台詞がこぼれた。
「途中まで一緒に行ってもいいですか?」
「私と?」
「はい」
「別に構わんが急ぐぞ」
「俺も急ぐんで構いません」
フェリックスはじろりと少年を見て歩を進める。軍支給のコートを着た男と高校生の男子という異色の組み合わせに、通行人がちら見した。
言葉は交わさないが、ピリピリした空気は互いに伝わっている。
「昨日、ミシェルと何かあったのか?」
最初にフェリックスが口を開くと、アランは気まずさに耐えきれず俯いた。
「ミシェルが何か言っていましたか?」
「何も言わないから訊いているんだがな」
アランは自分より頭一つ高い位置を見上げると、ダークグリーンの眼とかち合った。心の中を見透かされそうな鋭い視線はやはり苦手だ。
この周辺は、部隊が近いので軍人はよく見掛ける。彼の友人にも父親が軍関係の職業がいるが、フェリックスほど重々しくはなかった。
何回会っても緊張するよ。ミシェルはよく暮らしていけるよな。やっぱり親戚だから慣れているのかな?
フェリックスの噂を全力で否定した彼女。あの時は呆気にとられたが、一晩経ってミシェルとの仲に黄信号が灯り焦った。なので、勇気を振り絞ってフェリックスを待ち伏せしたのである。




