その1
「それでさあ、あいつときたら……」
「おい!! 隊長がいらしたぞ!!」
廊下で雑談をしていた下士官たちが、向こうから歩いてくる人物に背筋を伸ばして敬礼した。
泣く子も黙る、黙っている子も泣き出すフェリックス・コールダー大尉、30歳。第三師団警衛隊、通称『行儀のいい荒くれ者』を指揮する若きリーダーである。
黒髪、ダークグリーンの瞳で顔立ちはいいのだが、長身から見下ろす視線と仏頂面で『冷血鬼隊長』と他の部署から不本意なあだ名をつけられていた。
部下を罵倒したり殴ったことは一度もないのに、冷淡な容姿のせいで勝手に敵が増えてしまう。名前はフェリックス《幸せ》なのに不幸体質だった。
この日、残業もなく珍しく早い帰宅となったフェリックスは家路へと向かう。
住まいは、部隊から徒歩十五分で幹部住居が建ち並ぶ閑静な一軒家だ。3LDKの間取りは家族がいる歴代の隊長等には充分だろうが、独身のフェリックスには広過ぎる。
そんな彼の自宅の玄関先に、数日前からガラクタが置かれるという奇妙な出来事が起きていた。
片方だけの靴、野球やテニスのボール、正体不明の骨……。
これら全てに共通しているのは土まみれであること。部下のささやかな抗議か、はたまた子どもの悪戯か。いずれにせよ喜ばしいことではない。
玄関先で人影を見つけてそっと近づくと、例のガラクタを置いている現場を目撃した。それも小さな人影だ。
ついに現行犯逮捕の瞬間か、その者が立ち去ろうとするところへ
「止まれ!!」
疚しくなくても止まってしまう低く鋭い声に、不審者の体が大きく跳ねた。
「ゆっくりこちらへ来い」
外灯から次第に現れる人物は十歳くらいの少女だった。肩まである栗毛はボサボサ、顔と服は黒く汚れておまけに裸足である。
「なぜ私の家の前にごみを捨てる?」
すると、少女は大きな瞳を潤ませた。
「ごみじゃありません!! 宝物です!!」
少女の言っている意味が今ひとつ解らず眉をひそめる。まんざら嘘でもない真剣な眼差しに、価値観はひとそれぞれだと自身を納得させた。
だが、百歩譲って彼女の宝物をなぜ人の玄関先に置かなければならないのか。そこを尋ねると、今度は瞳を輝かせてこう答えた。
「あなたは命の恩人なんです」
「命の恩人?」
「はい」
少女は続ける。
「道路の片隅で雨で濡れてたわたしに傘と食べ物を差し出してくれました」
そんなことがあったかと記憶の引き出しを探したが見当たらない。
「覚えていない」
「そうですか」と残念そうに呟いた。
「無理もないですよね。野良犬なんていっぱいいますから」
この一言で、フェリックスはある出来事を思い出す。
あれは数日前、雨降りの夜だった。帰宅途中に一匹の仔犬が目に止まった。
野良犬か産み落としたのか、心無い飼い主が捨てていったのか。雨を凌ぐ場所もなく寒さでガタガタと震える仔犬が放っておけず、自身の傘をそっと地面に置いた。
ついでに夕食に買っておいたパンを鞄から取り出して添えると、その子は上目遣いで様子を窺っている。
フェリックスが頷くと、よほど空腹だったのか無心に食べ急いだ。
「あれはお前の犬だったのか」
「いいえ。わたしがその仔犬です」
フェリックスは聞き間違えたかともう一度訊く。
「飼い主はお前か?」
「飼い主はいません。野良犬ですから」
訳がわからなかった。
きっと空想と現実の区別がつかない年頃なのだろう。
「もう遅いから帰りなさい」
これ以上追及する気にもなれずフェリックスは家に入ろうとしたが、背中に感じる視線に振り向くと少女がすがる目でこちらを見つめていた。
「なぜ帰らない?」
「わたしには帰る家がないので」
彼女は「くうん」と鼻を鳴らして項垂れるので、フェリックスは大きなため息をついて腕組みをした。
せめて、頭の上に生えた耳や尻尾があれば信じるのだが。
何はともあれ、こんな幼い少女(?)が外をうろついていい時間帯ではない。事故に遭ったらとか不埒な人間に捕まったら……と心配が尽きないので、「一晩だけ」と渋い顔で少女を家の中に招き入れるのだった。
非日常的な出来事を受け入れるあたりが、ひと癖ある部下達をまとめられる彼の寛容な性格といえよう。
部屋に通すと彼女は物珍しげに見渡していた。小汚い格好でうろつかれるのもなんなのでシャワーを浴びるよう促したが、浴室の前に来てフェリックスは戸惑った。
犬とはいえ見た目は人間の少女と一緒に入るわけにはいかない。なので、その間に夕食を準備しようとキッチンへ戻るフェリックスの耳に悲鳴が聞こえた。
「キャインッ!!」
急いで浴室のドアを開けると、滝修行の僧侶ごとく水量全開のシャワーに溺れる少女に絶句する。
シャワーを止めてやり救出すると息も絶え絶えに礼を述べた。
「あり……がとう……ござい……ます」
「何をしている?」
「急に水が噴き出して……」
湯量や温度調節は簡単なパネルタッチ操作で子どもでもできる。なのに、この少女ときたらシャワーごときで溺れるとは信じ難いが本当に犬かも知れない。
となれば一から教えなければならず、仕方なく袖とズボンの裾をまくると浴室へと入るのだった。
「こいつは犬だ、こいつは犬だ」と自身に言い聞かせて、未発達の裸を直視しないよう栗色の髪にたっぷりと湯をかける。
手入れされていないせいか、毛玉になっている髪を丁寧に解してシャンプーとトリートメントをするとやっと人並となった。
洗髪に悪戦苦闘すること十五分、体がすっかり冷えたのか彼女が「クシュンッ」とくしゃみをした。
体を洗う段階でボディソープの泡で包まれたスポンジを手渡すと、受け取った少女は恐る恐る体を洗い始めたのを確認して彼は浴室を出ていく。
泡の滑らかな肌触りが気持ち良かったのか、鼻歌は洗面所でバスタオル片手に待機しているフェリックスの耳まで届いた。
やがて、少女が出てきて
ブルルルッ
犬の癖か全身を震わせて水気を切るものだから、近くにいたフェリックスはもろに被害を被ったが黙って拭いてやる。
フカフカのバスタオルで頭から包まれた少女はうっとりして身を委ねていた。
さっぱりした少女はあどけなさが残る端麗な顔立ちだった。栗色の髪は櫛通りも滑らかに、汚れで隠れていた肌はきめ細やかで白く、大きな瞳は光が差すと琥珀色に輝く。
「そう言えば名前を聞いていなかったな」
ドライヤーで彼女の髪を乾かしながら尋ねた。
「名前はありませんが、見掛けた人が『ポチ』とか『ジョン』っと呼んでくれてました」
「男の名前ばかりではないか」
「皆さん、パッと見じゃ区別がつかないみたいです」
確かにフェリックスもそこまで考えてもみなかった。ただ仔犬が視界に入ったから手を差し伸べたまでのこと。
少女の姿で現れて、初めて性別を知った彼はあれこれと名前を考え始めた。顎に手を当てて考え込むフェリックスに何かを期待している少女のキラキラした瞳。
時が流れて、フェリックスが口を開いた。
「……ミシェル」
「はい!!」
名前が決まった瞬間である。
今宵だけの同居人の頭をぐりぐりと撫でると、見えない尻尾を嬉しそうに振るのだった。
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