その3
今日も無事勤務を終えたフェリックスは家路へ歩いて帰った。夜風は一層冷たく、葉が枯れ落ちた街路樹が寒々しい景色を描く。
朝早く帰りが遅い彼は、軍仕様のコートを羽織って通うようになった。襟に階級章が付いているので苦手だが仕方がない。
玄関のドアを開けると、食欲をそそる匂いとともにエプロン姿のミシェルが出迎えた。
「お帰りなさい!!」
「ただ今」
「お料理、もうすぐ出来るので待って下さいね」
そう言ってまたパタパタと小走りでキッチンへ引っ込んでいく。彼女が食事当番を引き受けたので、帰宅したらすぐ夕食にありつけた。
「先に風呂へ入るがいいか?」
「そうして頂けると助かります」
長くなった栗毛を一つに結んで、楽しそうに味見をするミシェルを見つめる。
クリスへの対抗心で髪のアレンジに挑戦してみたものの、部下ほど器用でもなくセンスもない彼は、早々に断念してしまった。
視線に気付いたミシェルが振り向いてにっこり笑う。最近の彼女は、食事を作る仕事が増えて水を得た魚のように生き生きしていた。
こんな笑顔が見られるなら思い切って決断してよかったとフェリックスは思う。
それは数日前のことだった。
「たいちょーさん」
リビングのソファーで書類を読んでいたフェリックスが顔を上げた。
「この間、もっとわがままを言っていいとおっしゃっいました」
「ああ」
「だから、お言葉に甘えてわがままを言わせていただきます」
ミシェルは大きく深呼吸をすると真剣な面持ちでにじり寄る。子どもの頃より整った顔立ちが近づいたのでフェリックスは思わずのけぞった。
「たいちょーさん、わたし……」
ごくりと唾を飲むフェリックス。
まさか「犬に戻ります」なんて言い出すんじゃないだろうな。
なかなか踏み切れない彼女を待つ時間が長く、こんなに緊張するのも久しぶりだった。
「怒らないから言ってみなさい」などと宥める自分が情けない。だが、この台詞で安堵したようでミシェルがやっと口を開いた。
「わたし、一人でお料理を作ってみたいです!!」
「は?」
どんな答えにも対応しようと身構えていただけに拍子抜けだ。キラキラした瞳で彼女は続ける。
「火の用心は絶対守ります!!」
必要な知識も教えてきたし体も大きくなった。電気コンロなら安全機能が付いているので信用していいのかもしれない。
なにより、ミシェルが犬に戻る話でなくて良かったと人知れず胸を撫で下ろした。
「だったら、明日の朝食からやるといい」
「本当ですか!? やったー!! ありがとうございます!!」
ミシェルはひとしきり喜んで、今度は紙と黒マジックを持ち出してテーブルへ置いた。
「注意することを書いて貼っておきますね」
なにもそこまでやらなくてもいいのだが、律儀な性格は彼女のいい所でもある。
「えっと、ちゃんとスイッチをかくにんする。もえやすいものをちかくにおかない。それから……」
たどたどしい文章はご愛嬌だ。
「料理する時は火のそばから離れない」
フェリックスが添えると「あ、そうでした」と書き足していく。出来上がった注意書きを二人で復唱してキッチンの壁に貼った。
コンロ使用のお許しを得たミシェルは、早速料理の本を買い込んで挑戦した。焦げた目玉焼きが連続で出てきた時は後悔したが、次第に失敗作も少なくなった。
追憶に浸ったフェリックスが風呂からあがると、ミシェルがシチューを装っているところだった。ブロッコリーやニンジン、コーンなど見た目にも鮮やかである。
「「いただきます」」
声を揃えて各々食べ始めた。
スプーンの中に星型のニンジンを見つけて、これまで無縁な食生活に口元が緩む。市販のルーだが彼女なりに工夫している努力が窺えた。
着実に料理の腕も上がって、フェリックスの助けもいらなくなりつつある。
助けといえば、幼いミシェルに作った踏み台で意外な一面を垣間見た。
出会った頃より十センチ以上高くなった彼女は、ほとんどの場所なら手が届くようになった。ふと下げた目線に自身が作った踏み台がある。
「あれはもう用済みだな」
フェリックスの呟きを聞くや否や、ミシェルは慌ててそれを体全体で抱えこんだ。
「これはまだ使うんです!! 捨てちゃダメ!!」
「そ、そうか」
「そうです!!」
そんなにムキにならなくても。
初めて見せた剣幕にさすがのフェリックスもたじろぎ、大事そうに抱えて仕舞う彼女に唖然としたものだ。
黙々と食べていたら、フェリックスがかすかに笑ったのでミシェルも瞳を輝かせて尋ねた。
「なにが楽しいことでもありましたか?」
「いや」
「今、笑ってましたよ」
「気のせいだ」
「ちゃんと見てました」
「なら、見間違いだ」
ずばり言い切ると、空になった皿を彼女に突き出しておかわりを催促する。無意識に受け取ってよそうと彼の前に置いた。
「たいちょーさん、笑ったら素敵だと思います」
ミシェルの言葉に、思い切り顔を顰めて否定する。以前、緩んだ表情に『不敵な笑い』と反感を買ったのを思い出したのだ。
「私には似合わないらしい」
「似合うかどうかわたしが決めますから、笑ってみてください」
お前、時々無茶言うよな。
今すぐ笑えと言われても、凝り固まった表情筋はそう簡単に解せない。せいぜい口角を上げる程度の笑いしかできないことに今更ながら気付いた。
フェリックスが気難しい顔でハート形のニンジンをもてあそぶ。その様子が妙におかしくて、ミシェルが先に声を立てて笑った。
「何が可笑しい!?」
明らかに不機嫌な声色だが、一回り成長した彼女には効果は薄かったようである。
「なんでもありません」
「今、笑っただろう?」
「気のせいです」
先ほどの会話でやりこめられて、フェリックスはますます憮然とした。この間まであどけない笑顔だったのに、目の前の彼女は少し大人っぽい。すらりと伸びた手足にくびれた腰は、少女から大人の女性へ変わろうとしていた。
この先もまた突然成長するのだろうか。フェリックスに切ない思い出が蘇る。
「怒ってますか?」
ミシェルは、彼が黙ってしまったのは生意気過ぎたせいだと深く反省した。
「そんなことはない。ただ、ちょっと思い出して」
「なにをですか?」
フェリックスは小さく笑って口を噤んだので、彼女もそれ以上は訊けなかった。
彼が思いを馳せていたのは、小学校への入学祝で貰ったゴールデンレトリバーの仔犬のことだった。
輝くゴールドの毛並につぶらな黒い瞳で名前は《ミシェル》。
ミシェルの居場所はいつもフェリックスの隣で、何をするにも寄り添っている。彼と共に成長して、やがて親友でもあり大事な家族の存在となった。
だが、自然の摂理は残酷でミシェルだけが時間の流れが加速する。そして、フェリックスが士官学校の入学式に、行く末を見届けたかのようにひっそりと息を引き取ったのだった。
だから、道の片隅で震えている野良犬を放っておけなかったのかも知れない。容姿はまったく違うがゴールデンレトリバーのミシェルを彷彿とさせた。
そして、少女がやってきた。しかも、自分は犬でフェリックスを「命の恩人」だと言う。
琥珀色の大きな瞳を見ていると「そんな馬鹿な」と一蹴できずにいる自分がいた。知らず知らずに口からこぼれた名前。
それは《ミシェル》
このことは彼女には話していないし、これから先もその気はない。彼女自身が新たなミシェルなのだから。




