その2
フェリックスがミシェルを感慨深げに見つめる頃、警衛隊の待機室は騒然としていた。皆勤賞さながらの隊長が朝になっても現れないからだ。
「隊長殿はどうした?」
隊長の席を見やりながらマシューがクリスに尋ねた。この男、一応『隊長殿』とは敬っているがまったくのタメ口である。
「昨夜連絡がありまして休暇をとるそうです」
「あの男が休暇ねえ。鬼のかく乱か?」
マシューが驚くのも無理はない。フェリックスが警衛隊長に就任してから休暇を取ったのは数えるほどしかないのだ。どうせ独り身だからやることはないと、部下の勤務まで代わろうとする物好きはそういない。
「なんでも家庭の事情とか。詳しいことはおっしゃりませんでしたけど」
「あいつに家庭なんてあったか?」
二人はあの少女がお互いの頭に浮かんで同時に叫んだ。
「お嬢ちゃんの方か!?」
「ミシェルちゃん!?」
「風邪でも引いたんでしょうか?」
「かもな。あとで見舞いに行ってやるか」
「あ、俺も行きます」
「だったら、見舞いの品はお前さん持ちだぞ」
「了解です。モーガン軍曹に任せたらロクなもの買ってこないですからね」
そして、お決まりのモーガン軍曹による過激なスキンシップが始まった。一言多い隊長付きは、なかなか学習しない男だ。
常勤の時刻より少し遅い帰宅となったマシューとクリスは、その足でコールダー家へと向かう。見舞いの品は来る途中で買った有名店のケーキとプリンだ。
呼び鈴を鳴らすと、ミシェルがひょこっと顔を出す。
「マシューさん、クリスさん。こんばんは」
『元気そうでよかった。具合が悪いかと思って心配したんだよ』
フェリックスは玄関先の会話にはっとした。まさか部下達が来るとは思ってもみなかったので、ミシェルとまだ口裏を合わせていないのだ。
昨日の今日で、あの二人が彼女を見たら驚愕するに違いない。ミシェルを向かわせた迂闊さに慌ててリビングから飛び出した。
「なにか用か」
フェリックスはわずかに動揺して、広い背中で部下達から彼女を隠すよう立ち塞がる。
「用って用はねえが、お嬢ちゃんの具合が悪いかと思ってな」
「お見舞いに来たんです」
代わる代わる説明する部下に、フェリックスは警戒の色を濃くした。そんな上官にマシューも渋い表情だ。
「そんな怖い顔するなって。今度はちゃんとした土産も持ってきたんだぜ」
自分が買ったがごとくマシューが手提げを目の高さに持ち上げたので、「俺が買ったんですけどね」とクリスがぼやいた。
「わー!! ありがとうございます!!」
スイーツの甘い匂いにミシェルがつい二人の前へ踊り出したが、驚く素振りがないマシュー達にフェリックスが唖然とした。
「ミシェルを見て驚かないのか?」
「お嬢ちゃんがどうかしたって?」
「やっぱり具合が悪いんですか?」
各々、疑問文を疑問形で返すので会話が成り立たない。
「ミシェルの姿を見て何とも思わないのか?」
「ったく、親バカにもほどがある。相変わらず可愛いお嬢ちゃんですねって言ったら満足するのか?」
「そうじゃなくて、外見が変わったとか」
「成長期ですからね。俺の妹も、しばらく帰らないうちにめっきり大きくなってましたよ」
「いや、そういうことではなくて……」
珍しく奥歯に物が挟まる言い方に、マシューは焦れて声を荒げた。
「何が言いたいんだ!?」
彼等はミシェルの変化が分からないらしい。
「どうなっているんだ?」
フェリックスは隣にいる少女に囁いたが、ミシェルは「わかりません」と首を左右に振った。真っ直ぐな琥珀色の瞳はまんざら嘘をついている様子はない。
そこで、彼は一つの仮説を思いついた。
実はミシェルが魔法使いで、関わる人間の記憶を操作できるというやけにファンタジックな結論だ。そもそも、犬が人間の姿になって恩返しすること自体非現実的なのだから、このくらいの設定があってもおかしくない。
「なんだ、気難しい顔しやがって」
「まだミシェルちゃんが完治していないかも知れませんね」
ひんやりした夜風が吹いてクリスが身震いした。木々の葉も枯れ落ちて秋も深まる今日この頃である。
「さて、俺達は帰るとするか」
「ミシェルちゃんも部屋に入って。おやすみ」
「お見舞い、ありがとうございました」
また具合が悪くなったら大変と早々に引き揚げる二人に、ミシェルは元気よく手を振った。
リビングへ戻って見舞いの紙袋を開けてみると、可愛いラッピングに包まれたケーキとプリンだった。
これを買ってきたのは迷いなくクリスの方だろう。ミシェルはよだれこそ垂らさなくなったが、舌を出して『お預け』状態でそれを見つめていた。
「食べていいぞ」
フェリックスの合図で勢いよく食べ始めて、早速鼻の先に生クリームがついた。このあたりは幼いままで彼の頬が緩む。
太く長い指が伸びて鼻の頭をこすったのでミシェルが顔を上げて固まった。フェリックスが生クリームを拭った指を口に含んだので、かっと体中が熱くなる。
彼は子どもの頬に付いたご飯粒を取って食べる感覚だが、人間ではないミシェルにとってはひどくエロティックな行為に思われた。
爽やかな笑顔ならまだしも、色気たっぷりの含み笑いは刺激が強過ぎる。
「おい、大丈夫か!? 鼻血が出てるぞ」
「ふぇっ?」
ときめく感情が違う所へリバースしたのか、ミシェルの鼻から一筋の赤い血が流れた。手の甲で拭ってその目で確認した途端卒倒する。
「ミシェル!! しっかりしろ!!」
ふわりと髪が舞い、床に激突しそうになる寸前で抱き止めた。呼び掛けにミシェルがうっすらと目を開けると、息がかかるほどの至近距離にまた卒倒。
頬を叩いて意識を確認するフェリックスの声を夢心地で聞いていた。
あれから数日経っても、周りはミシェルの突然変異は騒ぎにならず普段通り過ごしている。フェリックスとしてもその方が有難いが、自分だけ異世界へ迷い込んだ気になった。
「やっぱり、隊長がいらっしゃらないと舐められちゃってダメですね」
隣でクリスがため息交じりに呟いて我に戻った。彼の話だと、隊長不在をいいことに給養班から難癖をつけられたという。
「飯の食べ過ぎとか意味わかりませんよ」
「私が給養班長と話をつけてこよう」
「あ、いやその、隊長自ら出向くほどではないので。それにモーガン軍曹が一蹴してくれましたし」
少し愚痴ってみたらフェリックスがあっさり聞き入れたので、事態が大きくなる予感にクリスは大いに焦った。
給養班と警衛隊の因縁の付け合いは、先々代の隊長からでもはや伝統的行事さえなっている。だがフェリックスが隊長に就任してから、あの威圧的な容姿に成りを潜めざるを得なかったらしい。わが隊も安泰と高を括っていた矢先に隊長不在を狙って奇襲に遭ったというわけだ。
コールダー隊長に詰め寄られたら、給養班長なんてひとたまりもないぞ。
クリスはふうっと息を吐く。年齢と経歴は向こうが上だが、踏んできた場数は我が隊長の比ではない。いうなれば、マシューとクリスの位置関係に近い。
「では、今回の件は保留でいいな?」
「はい」
良かったー!! これにモーガン軍曹が参戦したら血の雨が降るところだった。
クリスは心の底から安堵するのだった。




