その10
それは突然の告白だった。
夕食の後片付けを二人一緒にしていると、隣でミシェルがもじもじしながら口ごもる。
「わたし、お友達ができたんです」
キラキラした琥珀色の瞳に、フェリックスは手を止めて向き直った。
「友達……?」
「はい!! マリーちゃんはとてもいい方なんです!!」
嬉々する彼女が急に遠く感じた。
ミシェルと暮らして三か月、犬ということを忘れて人間の娘として接してきた。ひと癖ある部下達も気に入る人格の持ち主で、世に出れば愛されキャラに違いない。だが、こうも早く社会デビューするとは心の準備ができていないだけに狼狽えた。
「どこの子だ?」
職業柄、つい職務質問じみた口調になる。
「近所らしいですよ。時々見掛けるんですけど、向こうから声を掛けてくれて」
「よかったじゃないか」と返してみたが、内心穏やかではなかった。
それからのミシェルは、その『マリーちゃん』の話題ばかりだ。
「今日、マリーちゃんからお誘いがありました。明日、遊びに行ってもいいですか?」
「ああ。なにか持っていくといい。確か、貰った菓子があったな」
急な話で持たせる物がなく、ごそごそと棚を漁ると包装紙を開けてない箱を取り出す。貰い物で悪い気もするが、うちにあれば賞味期限をはるか過ぎて捨てられるのがオチだ。
フェリックスは好んで食べず、ミシェル一人ではあまり余る。それよりは、大勢で楽しく食べてもらった方が菓子も本望というものだろう。
ミシェルは、とっておきの可愛い紙袋に入れてそっとソファーに置いた。
人間として生活する以上、様々な経験や様々な人々と関わっていく。まったく無傷で過ごすのは無理だが、せめて傷は浅く少なくに越したことはない。それでなくてもミシェルは気を遣いすぎるのだ。
紙袋を満足げに眺める彼女を複雑な心境で眺めるフェリックスだった。
そしてマリーの家に遊びに行った夜は、興奮醒め止まない様子で怒涛の報告となる。
「お菓子、とっても美味しかったです!! ありがとうございました」
そりゃ美味いだろう。どこぞの偉い幹部から貰った銘菓なのだから。
彼女がはしゃげばはしゃぐほど、フェリックスの気持ちは冷めていく。興味がすっかり彼からマリーに移った一抹の寂しさが胸をよぎった。
たかが十歳の娘に嫉妬するとは、我ながら心が狭いがどうしようもない。
それにしても、『マリー』という少女はミシェルにとってプラスになる人物なのか。
ミシェルの話に基づいて『マリーちゃん』の情報をまとめるとこうだ。
名前:マリー
容姿:金髪でポニーテール。蒼い瞳。
性格:活発で元気がいい。
住まい:半径1キロメートル以内。
いくら頭の中で分析しても実際に会ってみなければ分からない。そして、それは不本意な形で実現する。
数日経ったある日、フェリックスが帰宅すると玄関で出迎えるミシェルの姿がない。リビングへ入ると、ビクッと体が跳ねた彼女が振り向いた。
「あ、お帰りなさい」
フェリックスは、さっと隠した腕と救急箱を目敏く見つけて尋ねる。
「怪我をしたのか?」
「転んじゃいました。大したことはないので」
「診せてみろ」
「大丈夫です」
「いいから」
見せようとしない彼女の腕を強引に掴むと
「痛いっ!!」
白く細い腕に刻まれた痛々しい傷にフェリックスは顔を顰めた。赤く血が滲んだひっかき傷に内出血している牙の痕、どこをどう転んだらこんな傷が出来るというのか。
「誰にやられた!?」
ミシェルの見え透いた嘘に強い口調になる。
「このくらい平気です」
「犬に噛まれたのか!?」
「わたしも犬ですよ」と、訳分からない言い訳をする彼女の顔を覗きこんだ。
「私の目を見ろ」
鋭い眼差しに、ミシェルがたまらず目を瞑る。
ピンポーン!! ピンポンピンポーン!!
けたたましく鳴る呼び鈴に出ようとする彼女をフェリックスが制した。夜分にこんな鳴らし方をするのだから非常識な者に違いない。
その者は、フェリックスが少し開けたドアに手を差し入れて強引に全開した。そこに立っていたのは細身の中年女性で、出てきたイケメン軍人に少し戸惑っている様子だ。
「そちらにミシェルという子はいます?」
「失礼ですが、お宅は?」
フェリックスは、不躾で無礼な女性を頭からつま先まで観察する。怒りを露わにした顔に派手な化粧、漂う香水の強さで気分が悪くなる。身なりはいいがやけに若造りしていた。
つまり、全てが気に入らない。嫌悪感を露骨に出したフェリックスに、女性は更に気を悪くしたようだ。
女性は、奥からやってきたミシェルを指差して怒鳴った。
「この子がうちのロンちゃんに怪我させたのよ!!」
「まさか」
フェリックスの口から咄嗟にこぼれる。ミシェルが人を傷つけるはずがないし、仮に事実ならなにか事情があるはずだ。
「これがその診断書よ」
突き出された封筒の中身は確かに病院の診断書が入っている。だが……
「サンフィル動物病院? 犬?」
「ロンちゃんは私の大事な家族なのよ!! それなのに取っ組み合いして怪我まで負わせて」
ペットを家族と想うのが悪いとは言わない。現にフェリックス自身も実家で飼っていた犬を家族みたいに接していた。
「犬種は?」
「シェパードよ」
「お前、あんなのと戦ったのか!?」
彼の隣に来たミシェルがこくっと頷く。
シェパードといえば、軍や警察でも活躍する大型犬である。見た目は人間だが、本をただせば彼女は仔犬なのだ。立ち向かうにはさぞ勇気がいったことだろう。
感服するやら呆れるやら。
「しかも謝りもしないし、なんてふてぶてしいのかしら!!」
睨みつける女性を真っ向から受け止めるミシェルに謝罪する気はないようだ。あの素直な彼女が拒むのだからよほどの理由があるに違いない。
「私にどうしろと?」
「まずその子に謝らせて、かかった医療費の請求を……」
と、ここで初めてミシェルが焦った顔をした。主にも迷惑が及んでしまった重大さを今、理解したからだ。
「たいちょーさん、わたし……」
「謝らんでいい。お前は悪くない」
彼女が言わんとする言葉を遮り、フェリックスは女性に向き直る。
「ミシェルは理由もないのに人を傷つける子ではない」
言い放つ彼に女性はヒステリックに声を荒げた。
「そんなの分からないじゃない!! あなたは現場を目撃していないんでしょう!?」
「見なくともわかる。彼女を信じているからな」
そう言い放つフェリックスにミシェルは胸が熱くなる。
ここまで信じてくれる人がいるなんて、わたしはなんて幸せ者なんだろう。
互いに一歩も譲らない一触即発の場面にまた呼び鈴が鳴った。
ドアを開けると、小さな影がフェリックスの横をすり抜けて細身の女性を指差す。
「ママ、このオバサンの犬よ!!」
「マリーちゃん!!」
突如現れた金髪の少女にミシェルは目を丸くする。続いてマリーの後ろからふくよかな女性がやってきた。
「申し訳ないが、今取り込んでいて」
フェリックスが第二の女性に断りを入れようとすると、彼女はマリーの頭に手を乗せて挨拶した。
「夜分すみません。わたしはマリーの母親です」
こちらはちゃんと常識を持っているとフェリックスは胸を撫で下ろす。




