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隊長さんちのわんこ《ミシェル》  作者: 芳賀さこ
第九章 さよならを言う同居人
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その11

 夜半に降り出した雨が静かに窓を濡らす音が響いた。そっと寝返りを打ったフェリックスはベッドの下に視線を送る。名前を囁くように呼ぶと小さな背中がわずかに揺れた。


「まだ起きているか?」


 ミシェルも寝返りを打ち、暗がりに慣れた目がフェリックスを捉えた。


「はい」

「こうしていると、お前が来た頃を思い出す」

「ふふふ、わたしもです」


 幼いミシェルがよく寝ぼけて彼のベッドに潜り込んできたものだ。頬をくすぐる栗毛の感触が愛犬のそれを呼び起こし夢うつつに撫でたこともある。

 このまま眠りに落ちるのが勿体ないくらい、懐かしい記憶が溢れた。だから、素直な気持ちがぽろっと口から零れた。


「わたし、人間になれて本当によかった……」


 フェリックスは手を伸ばして、柔らかな白い頬をそっと撫でる。

 そんなに切なく言うな。まるで今生の別れみたいじゃないか。


「まだまだこれからだ。楽しいことばかりではないが、その分幸せになれる」

「今のままで充分です」

「随分欲がないな」

「フェリックス《幸福》に出逢えたんですもの。これ以上の幸せはありません」


 美しい同居人に初めて名前で呼ばれて、自分は今どんな顔をしているのだろうか。しみじみ灯りがなくてよかったと安堵するくらい紅潮しているはずだ。

 幼い頃から一緒に暮らして、彼女になんの感情を抱かないわけがない。『犬』とか『人間』とか生態の括りがつまらないものに思えるほどミシェルが愛おしくてたまらない。軍人として殺伐とした人生に潤いを与えてくれたのが彼女だった。ミシェルを通して新しい絆が生まれ育っていく。その都度封じた感情も呼び起こされて、熱いスープがじんわり冷えた体を温めていく気持ちになった。

 ミシェルが笑えば身も心も軽くなり、ミシェルが悲しむと仕事も手につかない。いつのまにか彼女を中心に生活が動いている。もはやいなくてはならない存在を失うのが怖い。


「ミシェル、どこにも行くな」


 眠りに就いたのか返事はなかった。



 ミシェルが目を覚ますと、昨夜から雨のせいかいつもより部屋が薄暗かった。手元の時計で確認して、体に染み付いた習慣に間違いなかったと安堵する。寝起きが悪い主を起こさぬよう先にアラームを解除した。覗きこんだ寝顔は精悍さを残しつつ穏やかだ。

 いつ見てもかっこいいなあ。

 幼い頃から抱いていた感想を胸で唱える。落ちる髪を手で押さえながら身を屈めて、フェリックスの頬にキスをした。触れるか触れないか微妙なものだが、ミシェルにとってはありったけの勇気を振り絞った行為である。自分で自分を誉めてやりたいと微笑んでそっと部屋を出た。

 その後は何事もなかったかのように、いつものように朝食を準備して二人揃ったところで食べた。出勤するフェリックスに鞄と傘を手渡して笑顔で言う。


「いってらっしゃい」

「行ってくる」


 ドアが閉まる瞬間まで見送るミシェルに、フェリックスは後ろ髪を引かれる思いだった。



 半日が過ぎて、フェリックスは待機室の壁に寄り掛かり窓を見つめていた。ぼんやり降り続ける雨を眺めているように見えるが、考え事をしていると部下達は知っていたので声を掛ける者はいなかった。ただ一人の例外を除いては。


「あいつの仕返しは思いついたか?」


 太い声に、フェリックスはわずかに視線を移した。任務をそつなくこなす彼が珍しくミスして、どこぞやの隊長が散々嫌みを言って帰ったのをマシューは知っていた。だが、フェリックスの記憶からはとうに除外されている。


「部隊内の報復は規則違反だ」

「ご立派なことで」


 軽口に乗ってこない上官に、マシューが真顔に尋ねた。


「お嬢ちゃんのことか」


 ようやくフェリックスが体を向けた。


「ミシェルは私をどう思っているのだろうか」

「そりゃベタ惚れさ。気付いてないとは言わさせねえぜ」


 マシューは二人は他人だと承知している。だからこそ黙って見守ってきたのだ。


「お前さんはどうなんだ?」

「分からない」

「逃げるのか」

「ミシェルを愛している。それが家族としてなのか女としてなのか自分でもよく分からない」


 フェリックスはミシェルがキスした頬に触れた。控えめで従順な彼女が唯一残した感情の証しに、どうしたらいいか戸惑い起きずにいた。


「どっちでもいいんじゃねえか。これからゆっくり時間をかけて探ればいい」


 この台詞に、フェリックスははっとした。ミシェルに残された時間はない。だから、一緒に寝ると懇願したりキスしたり、普段では取らない行動に出たのだ。そして、今朝の胸騒ぎの答えがこれだった。

 

「モーガン軍曹、しばらく席を外すぞ」

「仕返しがボイコットってか。あの隊長、慌てるぜ」


 例の隊長とこのあと打ち合わせがあるが構っていられない。急いで待機室を出る上官を見送り隊長の椅子へどっかり腰を下ろした。


「隊長はどちらへ?」


 入れ違いでやってきたクリスににかっと笑う。


「目の前にいるじゃないか、隊長付き」



 傘もささず全速力で自宅へ向かうフェリックスの前に、行く手を阻むように『ミシェル』が現れた。肝心な時に姿を見せない彼が腹立たしく、掴みかかったが手応えがなく腕が宙を舞った。信じられないと大きく目を見開く。


「お前・・・・・・」

「どうやらぼくもお別れみたいだ」

 

 『ミシェル』が消えゆく我が身を切なく笑う。


「動物は自分の死に様を人に見せないんだ」


 フェリックスはあの家にもう彼女はいないことを悟った。死に場所を求めて旅立った。この雨の中、一体どこへ行こうというのか。


「ミシェルはどこだ!?」

「記憶と引換えにすれば、また野良犬として生きられる。でも、彼女はたった一つの選択を拒否した。何故だと思う?」


 質問で返されて、フェリックスは答えられず黙った。


「君との思い出を捨ててまで生きたくない、そう言って気丈にも笑ってたよ」


 人間として過ごしてきた時間は、犬の寿命をとっくに越えていた。そんな状態で犬に戻ったら、急速に歳を取りやがて死を迎える。つらい現実が待っているのに、彼女は最期まで笑顔でそばにいた。もっと早く気づいていたら……。ミシェルが頬に口づけを落とした時、何か応えてやればよかったと激しい後悔が襲う。


「怖いからわざと気付かないふりをしていたんじゃない?」


 彼の心を見透かして、ミシェルが冷たく言い放つ。


「所詮は捨て犬だから、いなくなっても代わりがいる。ミシェルが死んだらどうせ記憶も消えるんだから」

「私はミシェルを忘れない!!」

「人間はそう言って平気で忘れる生き物さ」

「私はずっとお前を覚えている」


 ミシェルは虚を突かれた様子だったが、ふっと頬が緩んだ。


「だから、ミシェルは命懸けで君を好きになったんだね」


 今までの冷酷な雰囲気から一転、穏やかで温かい笑顔になる。


「もうすぐ彼女はこの世から消える。行方も分からないしぼくも言うつもりはない。それでも捜す?」

「当たり前だ」


 踵を返したフェリックスだったが、今一度振り向いた。


「お前は幸せだったか?」

「ああ。君と出逢えて幸せだった」


 偽りのない微笑みと聞きたかった答えに、フェリックスも笑みで返して街へと駆けていった。

 



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