その10
『Dolce cane』を後にしたミシェルは空を仰いだ。雲の合間から覗く青い空、まるで彼女の心境を表しているみたいだ。やるだけのことはした。思い残すことはないという達成感とこれで終わりという寂しさ、二つの感情が交錯する。
未練がまったくないわけではない。人間界は大変だったが楽しい思い出もたくさんある。その中でも、やはりフェリックスとの生活は一番の宝物だ。
ふっと前を遮る人影に、ミシェルは足を止めた。
「『ミシェル』さん」
「やあ」
金髪を風に靡かせて、『ミシェル』が現れた。
「後悔はしない?」
「はい」
ミシェルが別れの準備を進めているのは知っていた。この世界に慣れ親しんでいるのも知っている。だからこそ、潔く去ることを選んだ彼女が不思議でならない。
記憶を消して犬としてフェリックスの元へ残るか、想いを胸に残して消え去るか。ミシェルは後者を選んだ。
「わたしは『ミシェル』さんのお陰でいろいろなことを学びました。ありがとうございます」
『ミシェル』は彼女と出会った頃を思い出していた。
『ミシェル』はかつてフェリックスの愛犬で家族同然の存在だった。人生をまっとうした彼は愛された者だけが行ける常世の国へと旅立った。ある日、下界を見下ろすと一匹の仔犬が気になった。冷たい雨が降りしきるなか、路地の片隅で飢えと寒さで震えている。だが、人間達は見向きもしない。
薄情だな。
『ミシェル』は嘆いた。もちろん、彼ら全てがそうでないことは分かっている。だから、一人の軍人が立ち止まったときは「やっぱり」と嬉しかった。黒髪にダークグリーンの瞳、フェリックスだった。仔犬が濡れないようにしゃがんで傘を傾ける。鞄からパンを取り出して与えると、無我夢中で食べる仔犬の頭を撫でた。
ああ、君は全然変わってない。
あの頃に比べて、冷淡な容姿だが本質は変わらず温かい。
『ミシェル』は間もなく仔犬と再会した。一度だけフェリックスに愛されたからここに来れたのだと思った。『ミシェル』は仔犬の隣にやってきた。
「あの人の匂いがする」
仔犬が言った。
「あの人?」
「ここに来る前に食べ物をくれた人です」
「軍人のこと?」
「知っているんですか!?」
仔犬の琥珀色の目が輝く。
「ぼくの飼い主だったよ」
「そうですか。とても優しい人ですね」
「うん。だからぼくはとても幸せだった」
仔犬はまるで自分の飼い主みたいに嬉しそうに笑った。自分は寿命をまっとうしたが、この犬の生涯は短すぎる。もっと生きていれば違う人生があったかもしれない。不憫に思い、ある提案をした。
「もう一度、彼に会いたい?」
「彼?」
「フェリックス・コールダー、これが彼の名前」
『ミシェル』が言うには、天命を尽くしてこの世を去った者は、一度だけ未練をなくすことができる。フェリックスは愛犬の死に目に立ち会えなかったのをひどく後悔している。一緒に暮らして幸せじゃなかったかもしれないと自責することもある。
ぼくはとても幸せだったよ。だから、自分を責めないで。
「人間になってこの言葉を伝えてほしい。ぼくはもう生き返ることはできないんだ」
未練すら分からず絶命している仔犬だからこそできるのだという。
「わたしが人間に……ですか? 」
思わぬ展開に弾む仔犬の声を、「ただし」と遮った。自然の摂理に逆らうのだから、それなりの代償がある。人間と犬とは寿命が違うので、苦痛を伴う成長の変化が生じる。そして、一番重要なのは最期を迎えるとき。これまでの記憶をなくして人間界へ残るか、記憶を留めて消えるか。
残酷な等価交換に、仔犬は迷うことなく返事をした。
「きっと伝えます。わたしもあの人に会ってお礼が言いたい。だから引き受けます」
こうして、少女の姿をしたミシェルが誕生した。
今ここにいる『ミシェル』は決して生き返った姿ではない。残留思念といったところだろうか、かろうじて現世に留まっている状態だった。その証拠に体の一部が消えつつある。彼もまた時間が迫っていた。
「君には感謝している。よく彼に尽くしてくれたね」
「わたしも感謝してます。たいちょーさんに会わせてくれてありがとうございます」
フェリックス《幸福》、その名の通り二人に幸せをもたらした。
『ミシェル』と別れたその足で市場へ向かった。夕飯の買い物をする客で相変わらず賑わっている。
今夜はたいちょーさんの好きな物をいっぱい作ろう。でも、かえって心配するかな?
自問自答の末、好物の料理を一品だけ加えることにした。
家に帰ると、さっそくローストビーフの準備に取り掛かる。好評だったのでレパートリーに加わえたのが役に立った。いつだったかフェリックスが食べていると、「まるで黒豹だな」と大笑いしたあの人は誰だっただろうか。こうして大切な人や思い出を日に日に忘れていく。
作り慣れた料理もレシピを確認しながら進める、味が変だとフェリックスが一瞬悲しい眼をするからだ。
下ごしらえを終えてオーブンで焼く段階で、ようやくミシェルに笑みがこぼれた。ここまでくれば失敗はないはずである。
「ふう」
キッチンの片隅にある踏み台が目に入った。子どもの頃、届かない彼女のためにフェリックスが作ってくれたものだ。大人の彼女にはだいぶ小さくなってしまったが大切な宝物である。ミシェルは慈しむように撫でた。
料理が完成したところで、呼び鈴が鳴った。ミシェルはエプロンを外して玄関へ向かう。
「おかえりなさい!!」
「……ただいま」
予想以上の元気に、フェリックスは面食らいつつ鞄を彼女に手渡した。廊下の奥から漂う芳ばしい匂いに鼻をひくつかせていると
「今夜は奮発しました。なんだと思いますか?」
「ローストビーフか?」
「ええっ!? なんでわかっちゃったんですか!?」
即座に正解したフェリックスに口を尖らした。実は彼がある所に寄った帰り、出会した肉屋の主が聞きもしないのにこう言った。
「隊長さん、早く帰ってやりな。今夜はローストビーフだってよ」
事のあらましを知りすっかり意気消沈してしまうかと思いきや、「さすがにスープはわかりませんよね?」とめげずに訊いてきた。頷くと、「ポトフです」と嬉しそうに笑ってみせた。
食事中もミシェルは終始明るく、会話も弾んだ。無理しているようにも見えるが、鬱ぎこむよりはいいかもしれない。
そして夜も更け、フェリックスは自室でそろそろ寝ようかとスタンドのスイッチに手を延ばした時だ。小さいノックの音にドアを開けると、遠慮がちにミシェルが顔を覗かせる。
「どうした?」
「明かりが見えたので、まだお休みしないのかなって」
「今から寝るところだ」
「あの、今夜ここで寝てもいいですか?」
意外な申し出に、フェリックスは即答できなかった。いくら『犬』とはいえ見た目は大人の女性、世間一般許されざる状況ではない。だが、懇願する瞳に負けて頷き体を開けた。枕を小脇に抱えて部屋へ入る彼女を見て『やられた』と苦笑する。いずれにせよ寝る気満々だったようだ。
もちろんミシェルに欲情的な感情はなく、純粋にフェリックスのそばにいたかったのだ。その思いは彼にも伝わったからこそ断れなかった。
寝る際にまたベッドの譲り合いの応酬があり、結果フェリックスがベッドで、ミシェルは床で就寝するのだった。




