その9
結局、フェリックスは部隊に戻ってこなかったので、マシューが約束通りなんとかしてくれた。どんな手を使って事を納めたかは知らない方が身のためだとクリスは思った。ひどい慌てようだったので、ミシェルと関係があるかもしれない。血の繋がりがないなら、二人の行く末になんら障害はないはずだ。なのに、隠す必要があるだろうか。ミシェルの幸せを願って身を引け、まだチャンスはあるから諦めるな、この二つの思いに大いに悩んだ。
時計の針が二時を指した頃、ミシェルは目を覚ました。意識が混沌として、朝と錯覚したが徐々に記憶が甦ってきた。と言っても、バイトに行って店の掃除をした辺りから途切れている。
首を巡らすと、軍服の袖から伸びた手が彼女の手を握りしめている。ベッドサイドランプの明かりが、傍らで眠るフェリックスをほのかに照らした。
そっと指を外そうとしたら、うっすらとダークグリーンの瞳が覗いた。
「気がついたか」
「たいちょーさん、どうしてここに?」
「店で倒れたとモニカが知らせてくれた」
ミシェルは自分でも驚いた。確かに朝から体調は良くなかったが、倒れるほど酷い自覚がなかった。記憶がないのは出勤して間もなくだから、丸一日気を失っていたことになる。フェリックスはいつ頃ここにいたのだろう。
「ずっとそばにいてくれたんですか?」
「ああ」
「お仕事は?」
「心配するな」
休んだとも出勤したとも言わない彼の気遣いに胸が痛い。フェリックスは新たに濡らしたタオルで小さな額に押し当てた。冷たい感覚がふやけた意識をはっきりさせる。
「具合はどうだ?」
「だいぶ良くなりました。ありがとうございます」
フェリックスはおもむろに上体を起こして首や肩を回した。長い間、同じ姿勢だったので凝り固まった体をほぐす。
「またたいちょーさんに迷惑掛けちゃいました。モニカさんにも」
「そうだ。だから元気になれ」
ミシェルは目を丸くする。「お前は我慢しすぎる」とか「働きすぎだ」とか説教じみた台詞がくるかと思ったからだ。弱った人間を追い込まない、冷淡な容姿を裏切って本質は優しい。ミシェルは出会った頃から信じて疑わなかった。
「しばらく仕事を休んだらどうだ」
フェリックスの提案をすぐ否定しなかった。気だるく体調が優れない日が多くなり、今日みたいなことが続いたらまたモニカに迷惑を掛けてしまう。それに、もうすぐ消えていく身だから思い出も清算しなければならない。自分のためではなく、残された人々のために。
「そうします」と答えが返ってきて、フェリックスはほっとした表情だった。
「モニカには私から伝えておく」
「わたしが話します。今後のこともあるので」
「調子が良くなったら遠出しよう。どこか景色のいい所でのんびりするのも悪くない」
実際、フェリックスにそんな余裕はないことは知っている。自分だけの『たいちょーさん』ではなく警衛隊の『隊長』なのだ。今回だって無理して休んだに違いない。
「もう一眠りしなさい」
「目が冴えて眠れそうにありません」
「話でもするか?」
やはり、今日のフェリックスは変だ。悪い意味ではなく良い意味でときめかせてくれる。先に喋ったのは彼で、最近の話題が主だった。もう過去の出来事や人物を覚えていないミシェルにとってはそれがいい。喋るのは得意ではないが、思い付くまま言葉を綴る。
いつしかミシェルの相づちが寝息に変わり、語るのをやめた。穏やかな寝顔を手の甲でなぞって浴室へ向かった。
シャワーを浴びて仮眠から目覚めた頃には、ミシェルはベッドにいなかった。部屋を出たら、漂う料理の匂いで空腹を覚える。考えてみれば昨日朝食をとったきりだ。
「おはようございます」
リビングに現れた彼を見つけて、ミシェルが張りのある声で挨拶した。
「もう起きてて大丈夫なのか?」
「はい」
ミシェルの病は突発的で、引きずるものではない。全快とまではいかないだろうが、昨夜に比べれば顔色もだいぶ良い。その証拠に、フェリックスが食卓に着くとあっという間に朝食が並んだ。
「今日、モニカさんの所に行ってきます」
食べ始めて、ミシェルが言うとフェリックスのカップが口元で止まった。
「早くお伝えしないとモニカさんも困るだろうし」
「そうだな。だが、無理はするな」
「はい。無理はしません」
「絶対だぞ」と念を押して、フェリックスはコーヒーを飲んだ。
朝食を食べ終えたフェリックスが出勤の支度をして気付いた。一晩中付き添ってできた軍服のしわがない。
脱いだ時、スラックスと上着のしわが目立っていたが、どうしていいか分からず放置していた。軍服は支給されるので、私服と違ってそう何着も替えがあるわけではない。この家にいるのは二人だけ、彼ではないのなら独りしかいない。
朝早く起きてアイロンを掛けるとは、どこまでしっかりした娘かと感心した。
誉めるべきか気付かない振りをするべきか、迷っていたら玄関までミシェルが見送りに来た。
「わたしの看病で眠ってないんじゃないですか?」
「この程度は訓練で慣れている」
「『隊長』さんですものね」
いつもは『たいちょー』と伸ばすのに、『隊長』とはっきり呼ばれて一瞬ドキッとした。それを紛らすようにあのことを持ち出す。
「軍服、ありがとう」
「このくらい当たり前です」
「お前のお陰で威厳を保てる」
「たいちょーさんにはカッコよくいてほしいですから。あっ、いつも素敵ですよ」
ミシェルは慌てて付け足して真っ赤な顔で俯いた。だから、出ていったフェリックスがどんな顔をしていたか分からなかった。
昼過ぎ、客が少ない頃合いを選んでミシェルが『ドルチェ』にやってきた。表情は堅い。
「ミシェル、もう大丈夫なの!?」
モニカは片付けを放り出して駆け寄った。ミシェルは深々と頭を下げる。
「ご心配お掛けしました」
「今朝、コールダー隊長から電話があったの。あなたの様子も教えてくれたわ」
さすがフェリックス、卒がない。などど感心している場合ではなかった。彼女に胸の内を伝えなければならない、拳に力をこめて勇気を振り絞る。
「実はお話があります」
神妙なミシェルに、モニカは椅子を勧めて自分も向かい合わせに座る。
「本当に勝手ですが、バイト辞めさせてください」
フェリックスはしばらく休んだどうかと言ったが、ミシェルは辞めようと心に決めていた。これから先『ドルチェ』に戻れないなら、きっぱり辞めた方がモニカのためにもなる。
モニカは何か言いたそうだったが黙って聞いた。ミシェルが『犬』だと知っているからこそ事情を推し量る。
「理由、聞かない方がいい?」
「ごめんなさい」
「今すぐ?」
「はい」
モニカは納得した笑顔を返した。
「分かった。落ち着いたらまた手伝ってくれる? あの子達、寂しがるから」
『あの子達』とは客でもあり、仲間でもある犬達である。言葉にはしなかったが、いつまでも待っているというモニカの思いが有難かった。
もう二度とここに戻ってこれない。記憶も消え去る。だからこそ、ありったけの気持ちをこめて伝えよう。
「今まで本当にありがとうございました」




