その9
食器棚に物を仕舞うため、ミシェルは踏み台を持ってきた。なんの変哲もないそれを大事そうに抱えて。
手作り感あふれる踏み台のお陰で、背の低い彼女も家事が格段にはかどった。
話は三日前に遡る。
クリスは持ち前の器用さでミシェルの髪をアレンジした。彼が取った行為はフェリックスにとって衝撃的で、対抗するわけではないが何ができるのか考えていた時だった。
ミシェルが食器棚に一生懸命手を伸ばしていたので、隣に寄り添って見上げる。
「どれだ?」
「一番奥のスープ皿です」
長身の彼が取ってやると、ミシェルは羨望の眼差しで受け取った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いつもはどうやって取っている?」
「え? あの椅子を持ってきます」
指差したのは大きな椅子で、小さな体で毎回抱えるには大変そうである。そこでフェリックスは閃いた。
踏み台を作ろう。
日曜大工が得意な父親を手伝ったことがあるので、腕には少し自信がある。
ということで、さっそく道具と材料を買い揃えてきたのだ。休みの日、フェリックスは数枚の板と幾つかの工具を持って庭へ出た。
「何をするんですか?」
「踏み台を作る」
「踏み台? たいちょーさん、背が高いのに?」
「私ではない、お前のだ」
図面は頭に入っているので、板の長さを測りのこぎりで切っていく。ギコギコと音を立てるそれにミシェルは興味津々だ。
「たいちょーさんはこういうのが得意なんですか?」
「日曜大工は子どもの頃からやっていたからな」
「今日は水曜日ですよ?」
ベタな突っ込みにフェリックスが眉を顰める。
「こういうのを称して『日曜大工』と言うんだ」
「おおー!!」
ミシェルは何度も呟いて記憶のノートに書き足した。人間の生活を始めて、随分と物事を覚えてきたつもりだがまだまだのようである。
板を切って組み立てる簡単なものなのですぐ出来上がるはずだった。だが、予期せぬ訪問者で予定が狂う。
「隊長殿、いるか?」
デカい声にデカい身体、そうマシューの登場だ。しかも、玄関からではなく庭から入ってきてハンマー片手の上官に目を丸くする。
生活の匂いをさせない彼が、アットホームな部分を垣間見せたからだ。
「こりゃ、珍しいものを見たぞ」
しまったといった風に目を逸らすフェリックスににんまり。
「こんにちは、マシューさん」
「よお。元気か?」
「はい。お茶とコーヒー、どちらがいいですか?」
「酒がいいな。確か、お高いのがあっただろう?」
頷くミシェルに、フェリックスが鋭い視線で制する。
「ところでお嬢ちゃん、ご主人様は何をしているんだい?」
「わたしのために踏み台を作ってくれています」
「へえ。隊長殿が日曜大工……ねえ」
含みのある物言いにフェリックスは憮然とした。吹聴はしないが、腐れ縁のこの男には弱みを握られた感が拭えない。
「私だってこのくらいはする」
「なにも言っちゃいねえよ」
大袈裟に肩を竦めるマシューを睨んで作業を続ける。一時間ほどで完成して、あとは仕上げを残すのみとなった。
「コーヒーをお持ちしました」
三つのカップをトレイに載せてミシェルが現れた。焙煎の香りが鼻腔を刺激して、コーヒーだけはうるさいフェリックスのこだわりが窺える。
三人は芝生に腰を下ろして飲み始めたところで、部隊にいるクリスから電話がかかってきてフェリックスが席を外した。
「家事はお嬢ちゃんがやっているのか?」
「わたしはあまり。ほとんど機械がやってくれます」
「あいつ、意外とだらしないだろう? 寝起きだって悪いし」
「そんなことありません!!」
と、反論したいところだが当たっているだけに返す言葉がない。早朝からてきぱき活動しているイメージがあるが、日課のジョギングも体を早く目覚めさせようと始めたものだった。
服装も勤務で着用するものはしわ一つないが、普段はラフな格好が多いしこだわりがない。警衛隊長としてこと細かな指示はするが、案外小さなことは気にしない。
オンオフの切り替えが上手いのだとマシューは言う。
「マシューさんはたいちょーさんをよく知っているんですね」
二人を見ている限り仲が悪そうだが、誰よりも彼を理解しているように思えた。
「腐れ縁ってやつだな。隊長殿からなにか聞いているか?」
「いいえ」
「ならいい。あまりいい出会いじゃねえからな」
ふっと遠い目をしたマシューにこれ以上は訊けなかった。しばらく沈黙が続いてフェリックスが戻ると、マシューはいつものおどけた表情に変わっていた。
「さてと、そろそろ帰るか。コーヒー、ごちそうさん」
カップを預かるミシェルの頭を撫でてマシューは立ち上がる。
「夜勤ご苦労」
フェリックスが大きな背中に声を掛けると、返事の代わりに片手を挙げて帰っていった。
「マシューさんとはお付き合い、長いんですか?」
冷めてしまったフェリックスのコーヒーを淹れ変えながらミシェルが尋ねる。
「モーガン軍曹が何か言ったのか?」
彼が警戒したのでミシェルは慌てて首を横に振った。
「いいえ。仲がいいのでそう思ったんです」
「仲がいい? それこそお前の勘違いだ」
苦虫を潰したように顔を顰めると、気分を変えるためコーヒーを一口飲む。
お二人とも、同じことを聞いたんですよ。
言ったらきっとまた嫌な顔をするに違いない。それが可笑しくてつい笑みがこぼれる彼女をフェリックスは怪訝そうに見ていた。
一息ついたところでフェリックスが作業を再開した。角と表面にやすりをかけて、少々の水なら濡れても大丈夫のようにワニスを塗る。
ワニスが乾くまでの間、二人はショッピングセンターへ出掛けた。平日とあってそれほど売り場は混んではおらず、カートを押すミシェルもすいすいと進む。
野菜コーナーの前でフェリックスが振り返った。
「今夜は何が食べたい?」
「あの、わたしが作りたいです!!」
ミシェルが一人で留守番している時は火気厳禁なので、こうした休みの日しかコンロは使えないのだ。
部隊から帰って来た彼が慌ただしく料理をする様子に、ミシェルはいつも心を痛める。手のこんだものではないから気にするなと言ってくれるが、それでも主・副食がひと通りテーブルに並んだ。
わたしも早く大人になって、たいちょーさんに料理を作ってあげたいなあ。
それが今、叶おうとしているので否が応でもミシェルのテンションが上がる。
「何を作りたい?」
「えっと『おむらいす』です。ケチャップのご飯にフワフワの玉子が載っててたまりません!!」
ミシェルが垂れるよだれを慌てて拭くと、フェリックスは眉をしかめた。
また随分と面倒なものを。
キラキラした瞳で食材を探す彼女にはとても言えずにいた。
家に帰り、さっそく調理開始となる。
キッチンに立つフェリックスの隣にちょっぴり背が高くなったミシェルがいる。足元にはつい先ほど完成したばかりの踏み台。
初めて持つ包丁に顔が強張るミシェルに、フェリックスは体を被せて手を添えた。背中で感じる体温で、密着度の高さを知った彼女は鼓動が高鳴る。
ち、近いです、たいちょーさん!!




