【三題噺】背伸びときゅうりと蚊取り線香
「あっつー……」
少しでも肌と肌を密着させたくなくて、私は顔を上に向ける。汗ばんだ首元を蒸し暑い風がぬるりと撫でた。
「何なのよー……もー……」
キャミソールと短パン。乙女が日中で出来る最大限の露出をしているというのにも関わらず、真夏の猛暑は容赦してくれない。簾に打ち水に風鈴という、先人達が編み出した暑さ対策もこの気温の前には意味を為さない。
ああ万事休す。私は此処で干物となって白米とお味噌汁と共に明日の朝食に並ぶのか。そう思いながら後ろにごろんと寝転がったら、
「……だらしないにも程があんだろ」
そう言って、私を見下ろす呆れ顔があった。
***
「んー! おいしー!」
「ったく……有り難く食えよ?」
縁側の日陰で、二人して並んでソーダアイスを舐める。舌に感じる冷たさと爽快感に自然と頬が緩んでしまう。うん、真冬に温かい部屋で食べるアイスも美味しいけど、アイス本来の美味しさを感じるならやっぱりこういう暑い日だと再確認が出来た。
私はアイスの有り難みを全身(主に舌)で感じつつ、隣で同じ水色をぺろぺろと味わっている男にとびっきりの笑顔を向けた。
「うん、このご恩は忘れるまで忘れないから安心したまえ!」
「そのアイス、叩き落とすぞ」
「ごめんなさい嘘です、ありがとうございます」
ぎろりと本気で一睨みされたので素早く低姿勢に切り替える。そんな私に彼は「……アホ」とだけ呟き、またアイスを舐め始めた。
(一丁前に言い返すようになりおって……)
彼は三歳下の幼なじみであり、私の弟みたいな存在だ。
現在中学三年生。高校生最終段階の私から見たら若々しい。昔は何かある度に私の後ろに引っ付いてきては「おねえちゃん!」と泣いて甘えてきていたというのに、今ではこのふてぶてしさ。
(まあ、こうして遊びには来るんだけどね)
自慢にならないけど此処は田舎だ。山では蝉が大合唱、川では魚が運動会。夜に鍵をかける習慣は回覧板で促されても定着はしない。私と彼の家も近所とはいえど、歩いていけば二十分はかかる。それでも尚こうして遊びに来るという事は、嫌われてはいないのだろう。
そう思う度に少し安心する、なんて事は言わないけど。
「あー……終わってしまった」
そうこうしている間にもアイスは消費され、気が付けば全て私の腹の中。名残惜しさに木の棒を見つめてみたところで新たなアイスは生まれない。
「そりゃ喰ったら無くなるだろ」
「……もう一本無い?」
「太るぞ」
「…………」
「代わりにこれでもかじってろ」
そう言って彼が傍らのビニール袋から出したのは、見事な緑色。細長い部分は確かにアイスと似通った物があるかもしれない。しかし、
「生きゅうりって……」
「畑で採れたから持ってけって、婆ちゃんが」
「はあ……まあ、頂きますけど……」
それにしたって生は無いだろう、生は。せめて味噌が欲しい。だけど台所まで取りに行くのは面倒だ。折角アイスで涼んだのに動いたらまた暑くなってしまう。
というわけで素直に胡瓜を受け取った私は、ぼきっと良い音を立てて胡瓜をかじる。田舎娘なめんな。おやつが取れたて野菜なんて物心ついた頃から日常茶飯事だ。
しゃくしゃくと頬張れば溢れ出る水分が喉と口内を潤す。胡瓜は栄養を取るものじゃない、水分を取るものだと話していたのは誰だったか。生物の先生だっけ。
「あー……そっか……」
「何だよ」
「いや、そういえば夏休み明けたら本格的に受験考えなきゃって」
「結局どうすんの?」
「まだ微妙。でも此処は出なきゃね、就職にせよ進学にせよ」
「……ふーん」
「まあアンタも悩んだら言いなさいな。先輩として相談に乗ってあげよう」
「おう、魔が差したら相談するわ」
彼は素っ気ない返事をすると袋からトマトを出して頬張った。というかトマトがあるなら私はそっちが食べたかったよ。貰う側だから文句言えないけどさ。
そんな思いを抱いていると知ってか知らずか、彼は無言でトマトを食べ続ける。手に伝う果汁を時折舐め取っては食べ、私はその様子を横目で眺めながら胡瓜をぼりぼりと味わう。青臭さが鼻を抜けていくのが何となく夏らしいかな、なんて。
お互いにここまで会話が続かなくても全く気まずくないのは喧しい蝉のお陰か、それとも今まで積み重ねてきた関係性の賜なのか。
(……あ、そっか)
こうやって並んで野菜を食べるのも、あと少しなんだ。
この夏が明けたら私はきっと忙しくなる。もう『今まで』を変えざるを得ない日々に向かっていく準備を始めなくてはいけないのだ。
そう認識してしまった途端、私の胸の奥がきゅうっと詰まった。
「……どした?」
「え、あ、いや」
ぱっと顔を上げてみれば、さっきまで横顔だった顔が此方を向いていた。
その表情が無愛想から心配に変わっているのが分かる。きっと此処で私が今抱いた感情を吐き出したら、彼は必死に考えて不器用な励ましをくれるだろう。彼がそういう奴だって事はきっと私が一番知っている。だから、
「……何でも無いよ」
***
あれだけ青かった空が、綺麗な橙色に染まっている。
家の中から蚊取り線香のあの独特の匂いがふうわりと漂ってきて、台所の方からお母さんが包丁で何かを切っている音が聞こえる。きっと暫くしたら「夕飯食べていくでしょ?」と彼に声をかけてくるだろう。
あれから本当に他愛ない雑談をぽつぽつとしていた私と彼は、今は特に何を話すわけでもなく、ただ二人並んで座ったままでいた。
「……そういえばさあ」
「ん?」
「私、アンタの高校の入学式、見れないんだね」
「……そうだな」
「見たかったなあ。で、制服似合わないって爆笑したかった」
「……最悪だな、お前」
「あははっ」
嫌悪感丸出しで睨んでくる彼。予想通りすぎる反応で思わず私は笑う。そんな私を呆れたように見ていた彼がふと腰を上げたので、その動きにつられて顔を上げた私ははたと気づく。
(……あれ、こんなに身長あったっけ?)
彼と視線を合わせる為に随分と上へ伸ばした自分の首に違和感を覚える。だけど今くらいまで上げなきゃ目は合わない。ということは彼の身長は、こうして改めて気付くと違和感を感じるほどに真夏の向日葵よろしく成長していたという事だ。
突然知ってしまった事実に固まる私を少し訝しげに見るも、彼は言った。
「じゃ、そろそろ帰るわ」
「え? 夕飯食べていかないの?」
「今日はいい。おばさんに宜しく」
「そっか……了解したー」
じゃあな、と玄関先に向かう彼の背中を見送る。
隣から無くなった存在感にまた胸の奥が詰まったけど、引き留める術なんか分からない。そもそも引き留めたってどうしようもない。
(……お母さんに、一人分いらないって言わなきゃ)
このまま此処で一人でいたって蚊に刺されるだけだ。私は何だか重くなった気がする体を動かして家の中へ戻ろうとする、と。
「おい」
後頭部にボールをぽんとぶつけるような呼び声。
思わず振り向いた先、家の陰から顔だけを覗かせた彼は、
「何かあったら言えよ」
とだけ言い残して、今度こそ帰ってしまった。
「…………」
家の中に上がろうとした中途半端な体勢のまま、彼のいなくなった場所をぽーっと眺めて数秒間。やっと我に返った私の胸に真っ先に沸き上がった感情は、両の眼から透明な雫となって頬をするりと伝っていく。
その涙を、何で、とか、どうして、とかは思わなかった。ただ悲しいのか切ないのかも分からない涙は止まらない。だけど瞬きを一つすれば雫は落ちていく。
(ああ、そっか)
どんなに望まなくたって変わってしまう。彼は今までの彼じゃなくなるし、私は今までの私じゃなくなる。
いつの間にか抜かされていた身長みたいに、どんどん変わっていくんだ。
だからせめて、まだ、今は。
「何も、無いってばー……」
今まで通り、君の先を少し行く、お姉さんでいさせてよ。
END.