tigris
静かな朝、ふと目が覚める。
昨日とはどこか違うことに新野はばっと起き上がった。
龍王の姿はない、どこかで眠っているのだろうか。
障子の先から明るい陽射しが差している。日の出特有の強烈な陽射し。
それが部屋の畳を照らし、ぎくりと体を固めた。
畳には大きな影がうつっていたからだ。
なにもなかった空間にすうっと姿が現れていく、開いた口がふさがらない前に背筋にぞっと怖気が走った。
六畳間の部屋、新野の目の前に窮屈そうに巨大な虎は現れた。
鋭い眼は片目で、大きな傷が横断したもう片方の眼は白く濁っている。
隻眼の虎はとても珍しい、新野でも資料でしか見たことがない体毛色をしていた。
背中側は黄色、腹側は白とはっきり分かれ、虎の模様はとても薄い。
「い、いちご……」
虎が目の前にいる恐怖と、ストロベリータイガーと呼ばれる希少種を目の当たりにした感動とが新野の中で激しくぶつかり合っていた。
『貴殿が龍王の隷士か』
虎の口から凛とした男の声が出てくる。
何度聞いても動物から人の声が出てくると驚くので、新野は反応ができない。すると慌ただしい足音が近づいてきて障子が勢いよく開いた。
たすき掛けに棒を手にとった三条が現れる、殺気だった雰囲気で棒を構えた直後、目を見開いた。
「那由多殿!」
『纈! 久しいな、元気か?!』
「はい!」
棒を置いた三条にぶわりと巨体が跳びかかった。新野は思わず青い顔で叫ぶ。
「ちょっ、だだ大丈夫かー!?」
そのまま縁側に押し倒されて、三条は虎の下でじたばたあがく。襲われているようにしか見えないが、その巨体の下から三条の笑い声が聞こえてくる。
「笑ってる! 笑ってるけど怖いよ?!」
覚悟を決めて新野は虎の背中にとりつきひきはがそうと力を込めると、軽くつかめて虎ごと背中から倒れ込んだ。
「うわ、重い!」
『はははっ、なんだ龍の御仁よ? さみしくなったか? それはすまなかった、あいさつがまだだったな!』
ぐるりと体勢を変えて、今度は新野に虎は覆いかぶさった。そしてそのまま豪快に顔を舐めまくる。
「ぎゃー!」
悲鳴を上げる新野。おかしくて三条が笑っていると庭から騒ぎを聞きつけて来た龍王がきょとんとしていた。
『突然お邪魔して申し訳ない! わたしは虎王の眷属、那由多という、よろしく頼むぞ葵!』
「は、はあ……」
結局三条に助け出されるまで新野は那由多に舐められ続けた。
疲弊しきった新野は正座をして、目の前に座る虎にうなだれる。
(元気な方ですなー)
龍王は新野の隣に座り、座布団の上で三条の淹れたお茶をちろちろと舐めていた。
「ていうか、虎王の眷属って。今敵対してるんじゃないのかよ、ほんと襲ってきたと思ってびびったんだからな」
「すまない葵。私も邸内に気配があった時まさかと思ったが、那由多殿ならば安心だ」
『わたしと纈は無二の友だからな! 安心してくれ、虎王には告げずに参った』
「おいおいそれっていいのか……」
『問題ないぞ、わたしは身を隠すにおいては眷属一だ。きっと誰も気づいていないだろう』
「しかし危険であることには変わりないはず。それほどの理由がおありなのでしょう?」
三条が声をひそめると、虎は低く唸った。
『友の復活を祝いたいところだが……。纈が復活したことによってこちらも動かざる負えなくなった。亜龍の群体は大規模な戦の支度を始めている、近くこの村を襲うことになるだろうな。そうしたら我々もついていくことになるかもしれない』
「なんと……」
悲痛な顔の三条の隣で、新野は首をひねる。
虎の尾は不満げに畳を断続的に叩いている。
『虎王はいまだ聖堂の奥から動かない。誰とも口を聞かずだんまりだ、いったい我々はどうしたらいいのだ!』
「那由多殿、落ち着いてください」
「あのさあ、口をはさむようで悪いんだけど、ちょっと俺にもわかるように言ってくれないか?」
おそるおそる手を上げ発言する。三条は苦い顔をしたが、那由多は目を細めた。
『なんだ纈、葵に事情を話していないのか? ははんさては恥ずかしがっているな、ならばわたしから話してやろう!』
「な、那由多殿」
ためらう三条に気が付いていない那由多は歯切れよく続ける。
『二年前虎王がこの村を去り、亜龍の住処に移動したのは知っていると思うが、その理由はただの裏切りではない! 虎王もなかなかの恥ずかしがりやなのでその口から聞いた訳ではないが、我々が思うに村を、ひいては纈を守りたくて去ったのであろう!』
「纈を守りたい?」
新野は三条を見るが、三条はうつむき視線を避けた。
『そうだ。なにしろ纈も虎王も仲良しさんだったからな!』
「仲良しさんって……」
(その通り!)
獣二頭の元気さにテュラノスの二人は閉口する。
「えーと、それで? 仲良しなら裏切らなくていいだろ」
『いいや。今もそうだが、亜龍の力は弱くない、空の飛べない我々が村の住民を守り抜くのは限界があった。しかしここは纈の生まれ育った村だ、みすみす捨て置いて島を出ることもできない。まさに愛だな』
(二年前、だから僕らとこの島を出なかったんだよね)
『そうだ。亜龍を突破して村の住民全員を連れバルフから出ることはできなかった。我々はここにとどまり邪龍王の情報を探る役目を自ら負ったのだ。しかしそれも少しずつ削れていく日々だった、我々はいつかは破滅する未来に抗っていただけだった。あの日までは』
三条の握る拳に力が込められた。
『後に聞いたことだが、龍王が邪龍王に敗北した時だったようだな、あれほどまでに亜龍の大群が一斉に攻めてきたのは。最早これまでと誰もが思っただろう、そこの纈以外は』
「いえ、私はただ……」
『纈だけは諦めなかった、反撃の一手を虎王に具申し星装龍ら亜龍三兄弟を討ち果たそうとした。が、直後虎王が亜龍側に寝返ったのだ、眷属を何頭か失い、虎王を連れ亜龍は去った。結果だけ見れば村を守ることができたのだ、だからあれは裏切りではない、我々を守るために今も亜龍の住処にとどまっているのだ!』
新野は静かに話を聞いている。
「でもそれなら、纈はなんで虎王を倒そうと思っているんだよ。話だけ聞けば一緒に戦えばいいじゃないか、今ならヴァンサントもいないし俺達だっているし」
『熱いな葵! わたしもそういう考えは嫌いではないぞ! しかしそれは無理な話なのかもしれん』
「無理?」
『亜龍に組する時、亜龍たちへの誠意を見せるためかもしれんとはいえ、虎王は纈のテュラノスの縁を断った』
「そっか虎王が纈を眠らせていたんだっけ」
「それが、わからない……」
三条はそううめき、畳に拳を静かに打ち付けた。
「虎王様はいったい、なぜ私を戦場から遠ざけたのか。なぜ私の意見を聞いてくださらなかったのか」
三条の瞳には怒りの感情がほのかに灯っていた。
しかしその怒り以上に哀しみに堪えた声が悲痛に響く。
「戦わねばなりません。今一度お会いして、虎王様の真意を私は聞き遂げなければ」
燃えたぎる炎を胸に秘めた宣告に新野も那由多も声を出せずにいると、黒龍だけがのん気な鳴き声をあげた。
(その君の具申した意見ってのは、なんだったの?)
「それはもちろん、劣勢を覆すために私にできることでした」
「それって、もしかして……」
新野は感づいて、言葉を失った。
三条は当たり前のことだと顔色を変えずに、
「私を喰らい、虎王様の糧として力を上げればあるいは、と」
(そうだな、それを聞いて虎王は裏切ったんだ)
頷く三条も、それを知っていただろう那由多も真剣な表情のままである。
虎王は、親しいテュラノスに自らを食えと平然と言われ、どういう気持ちになったのだろう。
想像すると胸が苦しくなるのは、はたして新野の気持ちなのか、つながっている龍王の気持ちなのか。
虎王の気持ちがわからない、と苦しむ三条の顔を、新野はただ哀しくなって見るしかなかった。




