誰が殺したヘンロビン
「兄さんなにを言うんだ」
鹿の焦る声を一顧だにしなかった。
藍色の狼は新野の声に首をかしげた。
舌を出しはっはっと息を吐き出し、並ぶ他の二頭を見回す。
新野がじっとりと背中にかいた汗に気づく間もなく、狼は顔をあげた。
「俺達はナスを狩ってやったが、その報酬を見逃せとはどういうわけか」
この狼も口を聞いた。声に合わずはくはくと口だけが動く。
それに驚くことは既にしなくなった。その余裕も最早無い。
「この鹿たちは俺を連れてきただけなんだ、あの影は……そうだ、お前たちが勝手に狩ったもんだろう?」
言葉を選ぶ暇もなく口が動くままに言う。しかししまった、勝手なことを言っている自覚がある。
狼は首をかしげる。
「影をここまで連れてきておいてその言いぐさか? 俺達は腹が減っている。人間、ここのルールを知っているか? 影を狩れば俺達は食事をする。人間は街に行く。どけ、お前、邪魔だ」
鼻づらにしわを寄せて一斉に低く唸り出す。灰色の狼は今にも飛び出しそうに前傾姿勢をとる。
「だ、だめだ! やめろ!」
新野は叫び、瓦礫をつかむ力を強くした。
しかし心の中では冷たくなっていく部分がある。
鹿を助けるために狼をコロスのか?
それは動物をタスケルことになるのか?
自然の成り行きを、わがままで止めているのは自分なのか?
「一回だ、一回でいい、見逃してくれ、頼む。こいつらに死んでほしくない、お前たちを傷つけたくもない!」
狼たちは顔をつき合わせ、次にはせせら笑った。
「上から堕ちてきた人間に、俺達がつかまるはずもない」
「こいつなんかきめてやがるのか」
「もういい、無視だ。俺は腹が減っ」
た
その一言が、真横から滑り込んできた黒い影に引きずられて消える。
一同が驚愕で声にもならない瞬間に、紺色の狼の断末魔が響いた。
先ほどの影よりもひとまわり体格の大きい奴だった。それ以外は全く同じ、特徴のない漆黒のヒトガタが、地面を滑り緊急停止する。
その口にいびつに曲がった狼の首をくわえたまま。
「もうひとり、いたのか!」
新野が恐怖に目を見開く間に二頭の狼が咆哮をあげ影に跳びかかる。
猿のごとく四肢を地面についた体勢の影は俊敏に地を跳ねる。狼の牙を回避し、くわえる死体を邪魔だと投げ、新野たちのほうへ駆ける。
とにかくがむしゃらにその場から逃げる。
新野の真後ろを突風となった影が通り抜けた。
狼の怒りの声がすぐ後ろで聞こえる。
振り返れば藍色の狼の爪が影の背中をおさえた瞬間だった。
そのまま影を地面に突き倒し、背面から首に牙をたてる。
すぐさま灰色の狼も加勢し、骨の破壊される音があたりに充満する。
先ほどの光景と同じだ。
ただし違う一点は、新野の目の前に鹿が一頭、横倒れになっていることだった。
「おい!」
震えたままの足をなかばひきずり鹿に寄る。その眼は空に向いていて、舌がだらりと口から出てしまっている。頭の半分は丸くひきちぎられて中身をさらしていた。
死んだ。どう見ても、死んでしまった。
「ああ、爺さん……」
呆然とする新野の隣で、若い鹿の溜息がいやに切なく聞こえた。
老いている分反応や逃げ足が遅かったのか、新野が前にいたから走り抜けることができなかったのか。
新野は数秒周囲の音が聞こえなくなった。
ようやく我に返った時、狼たちが影の死体にまったく手をつけていないことに気が付いた。
そんなことはどうでもいいと言うように、殺してすぐに、二頭の狼は紺色の狼に駆け寄っていたのだ。
首が真逆に回転した姿で倒れる狼に、二頭は順番に鼻を近づける。
それはまるで、仲間の死を悼んでいるかのように見えた。
一分にも満たない、それだけの時間が、重苦しい静謐をこの空間に落としていった。
老いた鹿の死体の前に立って、狼たちは新野に告げる。
「あの建物の地下を抜けた先に街がある。人間はそこに行くのがルールだ。さっさと消えろ」
新野は狼のまっすぐな視線を見つめる。
「…………」
とても言葉に迷う。ただ何も言わないわけにいかなかった。
「その、一頭……」
残念だった、と言うべきか。言葉が全く思いつかない。
「うるさい」
灰色の狼ははぐきを見せて、憎々しそうに唸る。
それに思わずひるんだ。
「ナスが二頭だと思わなかった。油断していたのは俺達だ。お前は関係ない」
その油断を作る理由になったのも自分のせいではないだろうか、と新野はうっすらと思う。だからこそ気丈な狼の声に痛みを感じる。
(俺が無駄なわがままを言わなければ、死ななかったかもしれない)
隣に立つ若い鹿はなにも言うことは無かった。そもそも動きの無い表情から、鹿がいったいなにを考えているかすらわからない。
「人間、ルールは守れ。……狩りの報酬はこれで十分だ。行け」
藍色の狼が老鹿の首をくわえ、ひきずりながらその場を去っていく。109に戻っていく二頭を見つめながら、新野は黙っていた。
「じゃあ兄さん、俺ももう行く。元気でやれよ」
「あ、そうなのか」
新野は鹿との別れを全く考えていなかった。急な別れに言葉につまりながら、
「えっと、ありがとうな。それと、……悪かった」
「なにを謝る?」
鹿は耳をはじく。その動作は妙に可愛い。しかしそれを笑うことは今の精神状態では到底無理だった。
「爺さん、死なせちまった」
「残念だが、仕方ない」
さらりと言いのけるので、逆になんと言うこともできなくなってしまった。
責めてくれれば、まだこんなふうに胸にわだかまりができることもなかっただろうに。
「……じゃあな、元気で」
なんとかそれだけ振り絞り、新野は力なく歩き出す。砂ばかりのコンクリート、もう機能しない車道の真ん中を。
「兄さん」
背中に鹿の声がかかった。
「兄さんは、優しかったのさ」
はっと後ろを振り返る。
鹿は目が合うと、その眼を細めた。
そして軽く跳ねるように走って、森に帰っていく。
しばらくその姿を見つめた。
こんなにも鹿の一言に救われるとは。それと同時に訪れる膨大な罪悪感。
「俺は、動物を守る人間でいたい、んだ……」
途中から胸をかき壊したくなるような衝動を覚える言葉だった。
夢を呟くのがこんなにも苦しくて、疲れるようになってしまった。
全身に疲労感を覚える中、新野は再び歩き出す。
向かう先には、廃墟と化した建物。
四角い真っ暗な口の前には、堂々と鎮座するイヌの銅像が立っていた。
壊れた風景にその銅像だけが新野の知る姿のままで、逆に違和感を覚える。
鹿が森の中で教えてくれた、「サラマンカは街に行ってしまった」という言葉を思い出す。
会えるだろうか。
この異世界の中で、なにか目的をもたなければ、この歩みすら意味の無いものになってしまいそうで。新野は疲れた心をなるべく自覚しないように、その建物――『渋谷駅』へ入っていった。




