wolf
目の前に広がる荒廃した都の姿を受け止めきれない。
自分は渋谷に黙祷をあげるために訪れたはずが、どうしてか穴に堕ちたシブヤへと来てしまっている。
気づいたときには頭を抱えてうずくまっていた新野に声がかかる。
「兄さんそろっといいか」
声につられてよろよろと顔を上げた先には、こちらをうかがう鹿の顔。
黒い化け物のいる森で出会った、言葉を話す鹿。
その若い声は少女のようだったが、口調はまるで青年のそれだ。
改めて見れば、角が無いので雌かと思ったが、生え変わりの時期で抜けている雄かもしれない。
そんなことを考える新野は思わず苦笑した。
尋常でないこの状況下で、鹿のことを正常に考える自分の頭は、やはり少し変なのかもしれない、と。
その苦笑によってすこしばかり力の抜けた体を起こす。
「お前らここまでありがとう、狩人はここにいるんだろ? あとは俺一人でいいから」
狩人に会えば鹿は狩られてしまう。親切なこの鹿たちをむざむざ死なせるのは心苦しい。
しかし若い鹿の後ろで、老いた鹿が素早く森に向いた時、事態は急変した。
新野もそちらに目を向けて、動きをとめる。
黒い人影が立っていた。
距離にして五百メートルは先だった。しかしぽつんと白紙に墨をたらしたように影の存在は孤立している。
「まずい、来た! 走れ兄さん、あの建物へ!」
叫んで鹿二頭は走り出す。
新野に指定した方向とは真逆の森の中へ。
「おい! なんで……!」
叫びかけて気が付いた。鹿は時間稼ぎ、おとり役を自ら買って出たのだと。
おそらく狩人がいるのであろう建物――109へ新野が無事たどり着けるように。
なぜそこまで、と思う。共通の友人がいるだけの、種族も違う動物のために、なぜ簡単に命をなげうつ?
(どっちだ。俺は今、どっちに走ればいいんだ)
逡巡する。逡巡して、回答を遅らせているだけかもしれないと迷う。どのみち自分にその判断ができるという自信もなく、考えているフリで事態をかんがみない。もっとも卑怯な行動。
三秒新野は、その行動を起こし、
「馬鹿か俺は!」
無理やり声を吐き出し、地を蹴った。109へ。
狩人に助けを請い、黒い怪物を、鹿が殺される前に狩ってもらう! そう判断して。全力で駈け出そうとした新野の正面から、疾風の集団が通り抜ける。
灰色、紺色、藍色の低い姿勢のなにかが新野と交差して森へ入っていく。
それは狼の群れだった。
荒い呼吸を疾走のあとに残し、狼たちは木々の間を抜ける。一息の間に人影に重なり、獣は飛び上がり黒き怪物に群がった。
容赦のない、一方的な暴力だった。
らんぐいの牙をむき出し、黒いヒト型は肩を食い破られる。足を折られ、引きずり倒されたその頭に真紅の口腔が殺到する。
狼のすきまから伸びた手足は、衝動のままびくびくと地を跳ねる。
怪物は血を出さず、食われた部分を損傷させ、形を崩し小さくなっていった。
その姿が最早原型をとどめないサイズになった頃、狼たちの動きが徐々におさまっていく。
狩りの光景を見て、立ちすくむ新野のもとへ二頭の鹿が戻ってきた。
そして狼の一頭が、黒い腕をくわえたまま振り返る。指がばらばらに、揺れていた。
他の狼たちも頭をあげ、こちらに目を向けてくる。
まっすぐで、「感情」などよみとれない。どこか神秘的にすら見える、狼の瞳。
新野があんなにも恐怖した黒い怪物を、一瞬で肉塊にした動物。
逃げるべきだ、さもなければ次にああなるのは自分か、この鹿たちだろう。
しかしどうしてか、鹿は逃げる素振りもない。
狼のうち一頭がこちらに進んでくる。藍色の、厚い毛に覆われた堂々とした体躯が、威圧的ですらある。
今からでも109へ走ろうか。
と思ってはたと気づく。今、狼たちは新野の真正面から来たではないか。
(ああ俺、ほんと馬鹿かも)
新野は、思い込んでいた自分を嘲笑する。この穴の中で、常識などゴミ箱に捨ててしまった体験をいくつも経験してきたのに、まだ自分は常識の中に立っていようとしていたのだ。
狩人と聞いて勝手に人間であると想像していた。
鹿の言う「狩人」とは、まさにこの、狼たちだった。
藍色の狼がひとっ跳びで新野の首に噛みつける、それよりも少し離れた距離で、新野は地面に散乱する瓦礫をひとつひっつかんだ。
緊張した全身は、とても普段通りの動きをみせられなさそうである。
狼はその歩みを止めた。
自分の頭ほどの、コンクリートの破片をつかんで新野は、せめて声だけは震えないように言った。
「この鹿たちを、見逃せ」
全身全霊の勇気を振り絞り、狼をにらみつける。
子どもの頃から夢は動物園の飼育員さん。
「これだけは、ゆずれない」
俺は、動物を守る人間でありたくて、その夢を追った。




