sika deer
その声にただ驚愕するほかなかった新野は、僥倖だったといっていい。
ただ疲労困憊ゆえの反応の薄さだったのだが、もしここで「鹿が喋った……だと……!?」などと口に出していようものなら、すぐさま警戒心の強い野生動物は逃走をきめこんでいたことだろうから。
目も口も開けて固まる新野を、鹿がただ見つめる。
沈黙。
根負けした鹿が今一度口を開いた。
「ちょいと兄さん、今サラマンカって言ったかい? 俺の耳が間違っていなきゃ、たしかにそう聞こえたんだがね」
新野は更に驚愕する。思いのほか野太く、外見に反して可愛げのかけらもないその声と口調が予想外すぎて。
頭の整理は全くつかず、最早その回路を放棄しかけていた。
というより今なんと声をかけられたかすら、理解に苦しむ。
なんと答えることもない新野に、鹿は逡巡しているかのように耳を動かす。なにしろ表情は全く変化がない、新野にその心の内を読むことは不可能だ。
するとそこで、水を飲んでいた方の鹿も首を持ち上げる。
「なんだね、このお方がどうかしたってのかい」
鼻をぴすぴす動かして、隣の鹿をふり仰ぐ。その声は老爺のそれで、おっとりと間延びしている。
対してきびきびと話すほうは、新野から視線を動かさない。
「いやね、この兄さん、俺の恩人の名前を呟いたもので。もしかして知り合いかと思ったわけだが、鹿の言葉はわからないらしい」
「そりゃあそうだろう。このお方は私には人間に見える」
言って、老爺の方はゆっくり踵を返した。
「夕暮れになるといけない、そろっと帰ろうじゃないか」
「そう、そうだね」
どちらも二、三歩動いて、森の奥の方へ体を向ける。しかし一方はまだ新野から視線を外さない。
「しかし爺さんよ、この兄さん腐臭がくっついていやがる。きっとどこかであの影に出会ったにちがいない。てえことは、夜になる頃にあれがやってきて食われちまうよ。せめて森を出れたなら」
新野は背筋を正す。今の言葉はすんなりと耳に入ってきた、そしてどっと、心臓の鼓動が跳ねあがる。
続いて話す鹿の答えに、それはより一層確固たるものになった。
「そりゃあ仕方ない。この世の中弱肉強食だもの」
それは、新野があの兎のように、あの黒い異人に捕まり、殺され、食い破られる未来を言っていた。
驚愕も混乱も押しのけて、新野は気づけば立ち上がっていた。
「ま、待ってくれ」
声が震える。今自分は鹿に会話をもちかけたのだ。
老爺の鹿も、新野をまっすぐ見返した。
つぶらな瞳が四つ、新野に集中する。
「助けて、ほしい」
絞り出たのは、懇願だった。半ば呆然としたまま出たのだから、それがきっと今一番の願望だろう。
鹿はまた耳を小刻みに動かす。
「兄さん、サラマンカの知り合いなのかい」
新野はつばを飲み込んだ。これに答えたら、会話は成立する。動物である鹿との、信じられないような会話が。
「そう、なんだ。あ、あんた……君の、恩人っていうサラマンカと同じ奴かってのはわからないけど」
鹿は体を反転させ、新野に向いた。
「驚いた。兄さん俺の言葉がわかってやがる」
その動かない表情に、本当に驚いてるのか? という疑問が頭の隅に出たが、それに構っている余裕などない。
「俺の恩人であるサラマンカは、そうだな、小さい子どもを連れた母親のことだよ。たしか名前は」
「ティカ」
言葉を遮って、新野は発言した。とたん、鹿の目が細まる。
「はは! こりゃ決まりだ。なんとまあ、不思議なこともあるものだな」
どうやら鹿はそれで笑顔になっていたらしい。快活な笑い声に、新野の体から少しばかり力が抜ける。
新野は二頭の鹿のあとにくっついて森を歩いていた。
前を行く動物から声をかけられるたびに、頭が混乱しかけたが、そのたびに努めて「深く考えない」よう徹した。
「しかしほんとに兄さん運が強いな、なにかついてるんじゃないかと思うくらいだ」
陽気な鹿は先導してどんどんと前を行く。新野は曖昧に笑った。
「そうか?」
「そうだよ。もし一人で森の中にいたままだったら、確実に夜には腐臭につられてナスに食べられていただろうからね」
「ナス?」
どう考えても野菜の茄子のことではないだろう。
「あのおっかない黒い人影だよ。会ったんだろう?」
思い出しただけで身の内が震える。
「あれはナスっていうのか?」
「そうだな、狩人たちはそう呼んでいる。あれはなあ、動くものはなんでも食っちまう。昼の内は姿が見えるからなんとか逃げられるが、夜は俺達の夜目でもとらえられないんだ。影そのものになって、気づいたら後ろに立ってる。そしてばいばいさようならだ」
すらすらと語る声はなんの気負いもないので、まるで深刻さが伝わらないが、新野は背中がいやに寒くなって思わず振り返ったりした。
「狩人ってのはなんだ?」
「森を抜けた先の、まあ今向かってる街にいる方たちだよ。兄さんを保護してもらわなくちゃいけない」
「街……」
その単語にどれだけ新野が安堵したことだろう。人間である自分にとって、この森はとても安心して生きていける環境に思えない。街、文明がかいま見えるその場所はきっと新野のよく知っている世界に近い環境に違いない。
心からの気持ちで、新野は言う。
「ほんと助かった、ありがとう」
鹿はからからと笑った。
「いいってことよ。恩人の知り合いを放っておくわけにもいくまい。それにどうせ、誰かが行って狩人さんに、森にナスがいるよって気づいてもらわなくちゃいけないんだから」
その言葉のニュアンスに少し違和感を覚えた。
「爺さんには悪いと思うがね」
「いいんだよ。どうせ止めても行くだろうに」
「はは、お見通しだ」
新野の心に、不安がしみてゆく。のんびりとした老爺の声にはなんの不安も迷いもなさそうなのに。
「お前こそ若いんだから、まだ諦めちゃいけないよ。逃げおおせてみせるといい」
「まあね、頑張ってみるよ」
「ま、待ってくれ。なんの話だ?」
深く考えられない新野には、よく考えれば当然のことがわからなかった。
人間の新野にとって街が安全ならば、動物の鹿にとって、さて街はどうだろう。
「街に行ったら、俺達はただ走る肉さ。とっつかまってご飯だろうなあ。鹿肉はえらい美味いらしいからな」
愕然とした。
「俺達はナスを恐れて森、家から逃げてきたってことになるな。それを見て、狩人さんは森に入ってナスを狩る。ついでに肉も手に入り飢えることもない。双方嬉しい、そういうおきまりさ」
言葉が見つからない。鹿は流暢に語るまま、歩も止めない。新野はただそれについていくことしかできなかった。
そんな、とかどうしたら、とかいろいろ思うことはあるけども、なんと言うこともできなかった。
ただとにかく驚いたまま、心はそれ以上身動きがとれないでいた。
茂みから目だけを出して、鹿はようやっと進行を終えた。
「ほら見えるだろ、街だ」
身をかがめた新野も、同じく向こう側をうかがった。
そこは、灰色の世界だった。
斜めに傾いだ信号灯は、どの色も表示せず沈黙していた。その下では乗用車が不自然に積み上がっている。ガードレールはぼこぼこにひしゃげて、立ち並ぶ建物の窓という窓は割れている。道路には瓦礫だけでなく、店の商品だろうか、とにかくいろいろなものが散乱していた。その中でも靴や鞄が妙に恐ろしい雰囲気をつくっている。そしてそれら全てを包み込むように、雪のごとく積もっているのは灰。
都市が、死んでいた。
くすんだ色に包まれて、廃墟が広がっている。
しかしながら実に既視感のある光景だ。
何故ならその景色の中、一等背の高い建物がある。筒状にそびえるその建物の上部には、かろうじて視認できる赤色の大きな文字。
『SHIBUYA 109』
「なんだよ、期待、したじゃん……」
半笑いで、新野はくしゃりと顔を歪めた。
森にいたことなんて夢だった、そう思えるかもしれないという淡い期待は脆くも崩れ去った。
その街は新野のよく知る街だった。しかし動く人影は見えず、活気も生活感もまるで崩壊していた。
そこは全く、安心できる世界ではなかった。
(帰りたい)
新野は遂に、そう思った。
穴に落ちて、見知らぬ森で目覚めて、恐怖で走っていても、鹿と話して、助けられた時も、決してそう思わないようにしていたのに。
堰を切ったように、思いがあふれてしまう。
新野はうなだれ、ただ最後の防波堤として、涙を流すことだけは全力で我慢をした。




