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獣のテュラノス  作者: sajiro
トロントの森/飛燕の王のテュラノス編
57/147

強いは正義! 私が正義よ!

「ホンファ、眠れないの?」

 燕廟の奥の間で一心に祈っているその小さな背中が、兄である少年にはとても侘しいものに見えた。

 声に振り返った少女は、兄の姿を見つけてすぐさま駆け寄ってくる。

 兄の胸に飛び込んできた少女の肩が小さく震えていて、少年はぎゅっと抱きしめた。

 それでも震えはおさまらない。少年はひどく自分の力不足を痛感する。

「にいさま、明日になったらお別れね」

「……怖いの?」

 膝をついて少女の顔をのぞく。

 黒い髪に隠れて、しかしその奥でたしかにたまった涙が見える。

「これ、あげるね」

 紅花ホンファという少女の名前にちなんだ、紅色のリボンを彼女の手に渡す。受け取ったまま固まっているので、見かねて少年は少女の後ろにまわった。

 長い艶やかな髪にリボンを不器用ながらも巻いてみる。

 形は歪だが、なんとか巻いた。

「一緒に行けなくて、ごめんね」

 気丈にも涙をこぼさないように、きゅっと結んだ口を少女がようやく開けた。しかしなにも言葉が出ない。

 代わりにもう一度腕をまわしてくる。


 七色の儀式装は一族伝来のものだったが、少女の髪に巻かれたリボンだけは真新しい生地だった。

 静謐が包む長い廊下を少女は一人進む。

 赤い絨毯の上を進み、豪華絢爛な壁模様を全く見ないで少女は歩いていく。

 この拝殿に足を踏み入れた時点で、少女は俗世と離れて生きることを義務付けられる。

 それが大燕ダーイェン家の、姫に選ばれた者の運命だった。

 先代の「姫」の訃報、その「王」の逝去の直後から、新たな姫の選定が始まる。

 そして次期王が決定されたと同時に、姫の選定も終わるのだった。

 一族の長から直々に、紅花のもとへ報せが届いた。

 まだ十二になったばかりの少女は、その報せを聞いて、はじめ自分がお姫様になったのだと喜んだ。

 しかしすぐさま両親が泣き出したことで、事態の異常性に気が付いた。

 それから自分の行く末を、両親が泣いた訳を十分に理解するほどに学び、修行をする。

 正式に姫となったこの日、少女は独り。

 掟に従い、もうこの道を戻ることは許されない。

 やがて行き止まりになる。

 目の前には大きな扉。

 どんな大きな生き物が、この扉を使うのだろうと不思議になる。

 少女は途方にくれた。自分はこの扉の先に行くことが使命である、しかしどう見ても少女の非力な手で開けられる規模ではなかった。

 小さな吐息をつこうと思ったとき、ゆっくりと扉が片方開いた。中から誰かが開けてくれたように。

 隙間から光が差してくる。

 その暖かな光に触れようとするように、少女は無意識に手をのばしていた。


 扉の先は塔の一階のようだった。

 おそろしく天井が高い。はるか彼方、上空まで塔が続いている。

 口を開けて見上げていた少女は、一歩前に出た時悲鳴をあげた。

 つま先が揺れた。

 すぐさま後ろに転んで難を逃れたが、一歩先はもう床が無かったのだ。

 一階だと思っていたのは間違いだった。

 その塔は下にも続いていた。

 深く、どこまでも深く大穴が開いている。風の鳴る音がのぼってくる。

 裾の長い儀式装をたぐりながら、少女は震えそうになる気持ちを叱咤した。

 その時頭上から唐突に、下品な笑い声が降ってきた。

 静謐な空気を完全に壊すその声。

「ヒャハハハ! 見ろよ、このロリコンが! こんなしょっぺえガキんちょが趣味だったのかよてめえは」

「…………うるせえなクソ野郎」

 少女は思わず目を見開いた。

 その声の主は、当然のようにそこに座っていた。

 塔の壁から出るおうとつにその男は腰掛けていた。

 若い男は少女を見下ろして大笑いしている。

 少女と同じ東洋の顔立ちに黒髪。劇場で見たことがある、厚く赤いビロード素材の幕を、まるでマントのように羽織っている。不思議とその幕に重みは感じられず、よくよく見るとふわふわ浮いているように見えた。

 そして一番不思議だったのが、声は二人分だったのに男は一人であったこと。

 もしかして、と少女は自分でも荒唐無稽だと思う直感のままそれを見た。

 男の頭にとまっている、一羽の燕。

 光沢のある藍色の体。顔面は赤く、腹は白い。

 燕はぱっと男の頭から飛び立ち、少女の周囲を旋回した。

「ちっ、本当に若すぎだよ。オレの趣味とはえらい遠い奴をよこしやがったな。前の王の趣味かい?」

 悪態をついたのはやはり燕だった。声変わり前の甲高い少年の声をしている。

 少女は驚きよりもその言葉の棘に身をすくませる。

 燕はその様子に更に嫌気がさしたように、急旋回して男の頭へと戻った。

「これじゃ使い物になるわけがねえ」

「はん、そうかいそうかい」

 燕の台詞に、男はにやにやと笑みを浮かべる。

 品定めする視線に少女は怯える。

 しかしはっと思い至った。

 ここに少女は使命を果たしに来たのだ。

 自分が命を賭して仕える「王」に出会うため、一人ここまで来たのだ。

 一族の命運を背負っている、ここで怯えて縮こまってはいけない

 齢十二といっても、一族代表という重みを健気に果たそうとする少女は目をつむった。

 母と父と兄の顔を思い浮かべる。

 愛した彼らの明日が、どうかずっと平和でありますようにと昨日は祈っていた。

 今はその祈りを体現するために、自分の行動があるのだと思える。

(にいさま、わたし、がんばれる子なの)

 再度目を開けたとき、少女はいつもの自分を少し取り戻していた。

 ぴんと背筋をのばして、なにやら会話している男と燕を見上げる。

「わたし、あ、いえわたくし、大燕家よりまいりました。神子紅花と申します」

 長い裾を翻し、少女は綺麗な礼をとり深々と頭を下げた。

「身を賭してお仕えいたします、飛燕の王」

「嫌だね」

 はじめそのにべもない台詞が自分に吐かれたものだと、理解ができずにいた。

 ぽかん、と顔を上げると、燕は少女の肩に気安く移動してきた。

 小さな嘴から、よどみなく悪態があふれてくる。

「まずその緊張した態度が腹立つ。びくびくしてるくせに無理矢理、わたしがんばってます、みたいなスカした態度がね。いったいそんなてめえが、身を賭してなにをしてくれるってんだ? ご奉仕でもしてくれるのかい? だとしてもこんなつるペタ幼女は趣味じゃない。よって却下だ」

 軽く蹴りを入れるように強く飛び立って、燕は空間を旋回する。

「あとそうだな、四年くらいしたらまた見せに来いよ。そん時は今よりましなはずだろうからな」

 それだけ告げて燕は羽ばたくのをやめる。

 大穴を滑空して、燕の姿はすぐに闇の中に消えていった。

 途方に暮れた様子で、呆然とする少女の前で、男も立ち上がる。

 わずかなとっかかりに足をかけているのか、しかし揺らぎのない動きだ。まるで宙に立っているように。

 男は全く少女を哀れに思ったふうもなく、「じゃあまたな」とぞんざいな挨拶を残してひょいと暗闇に身を投じた。

 燕の消えた先、穴をまっさかさまに落ちていった。

 燕も男もどこに行ったのか。男など、この穴から落ちて助かるのか。

 そういった疑問は頭のすみにはあったが、少女はそれよりも強い感情が心の奥から急いでやってくるのを感じていた。

 ふつふつと――。


 入ったが最後帰らないと言われている塔から、少女はその日の内に出てきて、一族を驚かせた。

 王の怒りを買ったと嘆き、少女を罵倒する者もあった。

 しかしそんな中、兄は真っ先に少女の冷たい体を抱いた。

 少女はやはり震えていた。

「ホンファ、だいじょうぶ? こわかったね……」

 優しく兄に撫でられる少女は、微動だにせず直立していた。

 その双眸は、兄がのぞいていたなら驚いたことだろう。

 恐怖に震え、涙をためていた昨日までの妹とは決定的に違ったのだから。

「にいさま、わたし……」

 胸の内から聞こえたつぶやきに兄は耳をそばだてる。

 ふつふつと、煮えた感情が暴発するのをおさえこんだ声。

「わたし、がんばれるのよ……本当にね」

 少女は決戦前の武者のごとく猛々しい闘気をまとっているようだった。

 炎のオーラすら背後に見えそうなその気配に、兄は腕を外し後じさる。

「四年よ。ぜったいに、思い知らせてやるわ。あの……クソ鳥が!」

 泣き虫なのにそれをかくして気丈に振る舞う頑張り屋の妹から、信じがたい暴言が飛び出て、兄を含めその場の空気を凍り付かせた。

 初めて受けた侮蔑に完全にぶちぎれた少女は、それから人が変わってしまった。


 四年後、再び彼女は塔に入る。

 儀式装は動きにくく邪魔だと、着せようとする官を蹴り飛ばし大股で進んでいった。

 すらりとのびた足で。

 そして唯一変わらない黒髪と赤いリボンを翻して。

「見てなさいよ! リベンジマッチ!」

 ふん、と鼻息荒く踏み出していった妹を、兄は苦笑いとともに見送った。

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