立ち止まるな
(いや、俺はなにを迷っているんだ)
新野は迷いながら、その自分を恥じていた。
(俺はいつもそうだ。選択を迷って、でも本当は心は決まってるのに)
一度、迷いを断ち切るために強く瞳を閉じた。
そして決断して開いた彼の目に、ナスシュは驚いて目を見開く。
「俺は、あんたを殺さない」
「何故だ!」
険しい彼女の顔にぐっとつまる思いを、勢いにのせて言った。
「俺はあんたを殺せないんだ! 無理だ、自分がかかわってたって、怖いんだ! 友達の大切な人を殺すなんてできない!」
「なんてことだ! 君はわかっているのか? 君だけではない、その友人を、私の息子を危険にさらすんだ。よく考えてくれ、街中の人々をナスにするつもりなのか? 君の選択にかかっている!」
「それでもできない! 俺にはできない! そんな勇気は無い、俺はただの……ニンゲンなんだ!」
新野は顔をふさぎ、許しを請うように床に手をついた。
女の顔は厳しくそんな彼を見下ろしている。
わなわなと握った拳が震えていた。
「わかっていない!」
言いながら、彼女は震えた手で自らの頭を抱いた。
「君は……龍王のテュラノスだ! 私たち悪魔を殺すものだ!」
女は直後、大きく叫んだ。
悲鳴を上げて頭を抱える女に新野もブラウたちもぎょっとする。
背後の金髪の女が顔をしかめた。
「お話も結構ですが、そろそろ使命を果たしていただかなければなりません。鼠の王よ、弱き者の皮はお脱ぎなさい」
ナスシュは内なる衝動に全力で抗っているのか、荒い息を吐き出しよろよろと新野から遠ざかる。
新野も危険を感じたまま立ち上がり、ブラウたちのほうへ後じさる。
「我らが王は龍王のテュラノスの首をご所望なのですよ。やりなさい、わたしのかわいいお人形さん」
女は初めて冷徹な表情を、少女のような笑顔に染めた。
それは新野にとって戦慄する殺意の鎌を向けられたようなものだった。
「戻れ! 逃げろ!」
ブラウとロットへ大声で警戒する。
しかし鬼の二人に新野の言葉はそのまま伝わっていないのかもしれない。
体をこわばらせ、反対に新野を指差し声を上げてきた。
同時に後ろの何者からか肩を強い力でつかまれる。
夢中でそれを振り払い、新野は走り出した。
二人をひったくるようにつまんで新野は通路を来た方向とは逆に全力で駆けた。鼠の死体は押しのけ、とにかく走る。
後ろから質量のあるなにかが追ってきていた。
鼓動が跳ねる。
目をかっと開いて振り返らず走る!
ロットとブラウを持っているにも関わらず新野は重さも感じず、狭い通路を抜けて階段を駆け上がり、広いホームへ飛び出した。
着地して後方を睨みつける。
地下へと続く階段からその巨大な怪物も飛び出してきた。
複数の笑い声が重なった、奇妙で怖気の起きるそれが空間中に響き渡る。
あたりを睥睨する無数の眼球を顔面に散らした、巨大な漆黒の鼠。足も尾も、口も全身を覆うくらい無数に存在している。
新野から解放された二人はその怪物を見上げて、絶望に顔を歪めていた。
「ああ、嫌だ……!」
ブラウの初めて耳にした弱弱しい声。
ロットが大剣を抜き放つ。
「もう、笑えねえ……」
大剣の切先をどこに向けるのかわからない彼は、新野を見上げる。
「お前もそんなになっちまうし……母さんは親父だったし……。なあニイノ? どうしたんだいったい?」
新野はその言葉を聞いて、
しかしもう理解することはできなかった。
その巨大な鼠の怪物は複眼を滅茶苦茶に動かして、何本も並ぶ足で地面を這っていた。
電車に匹敵する巨躯は線路の上をゆっくりとこちらに進んでくる。
その大きさだけが生前の姿と重なった。
「親父……なんだよな」
ロットの声にブラウはかぶりを振りたい思いでいっぱいだった。
しかし彼の襟をロットが強くつかむ。
「しっかりしろよ、こんなとこで死にたいのか?」
低い声に叱咤され、荒々しく振りほどかれた。よろめく体を支え、ブラウはきっとロットを睨む。
ロットはその視線を受けてにやりと笑む。
「その調子」
この兄弟流の励ましにブラウは舌打ちをして剣を抜く。
「たしかにあれは、鼠の王だ」
「母さんが親父になっちまったよな? どうゆうことなんだ」
新野であるナスが二人に声を荒げた後、母親であるナスは苦しみだし、一瞬にしてこの巨大な化け物へと変じてしまった。
目の前で起きたこととはいえ信じがたい。フィルムが切り替わるようにごく簡単に、まばたきよりも早く存在が変わってしまったのだから。
「やめとけよ慣れない考え事は。どうせわかんねえんだ。それよりこれはどうする」
いつもの様子に戻って、生意気な言葉に舌を巻きつつも、ロットもそれを見る。
元ニイノとでも呼べばいいのか。
二人を抱え走った新野は、両足に装甲をまとったかと思えば、それをたちまち全身に着込んだ。
それはまさしく、龍そのものだった。
ただしナスの漆黒の影のまま。
ヒトの姿だった頃から二倍くらいの高さになり、しかし龍王と比較すると小さい。
蝙蝠に似た大きな翼、全身を包む光る鱗を模した装甲は龍王を元に形作られているようだった。
ヒトと龍の間のような生き物に変じたそれは四足のかぎづめを鳴らしている。
元ニイノは鼠の王を警戒しつつ、ブラウとロットの前に立っていた。
「こいつもしかして俺達を守ってるんじゃね?」
ロットの考えに簡単には同意できないまま、ブラウはニイノを観察していた。
しかし宙に浮くもう一人の存在に気が付き驚愕する。
地下で唐突に現れた金髪の女だった。
天井に近い空中に女は腰掛けたように足を組んでいる。
「あいついったい……」
地下での話しぶりから察するに、あの女がこの事態の鍵ではないかとブラウはふんでいた。ナスとまるで会話が成立しているようだった。
鼠の王の距離がより近くなる。
ニイノが四肢に力を張り、迎撃の体勢を取るように身構えた。
「ロット、とりあえずは……」
「おう、あの高みの見物してるやつだろ?」
同じ顔の青年は、一瞬灰色の瞳を交錯したあと同じように笑んだ。
「知ってること全部吐いてもらおうか」
「やめろよそんな、悪者みたいな台詞」
「善人よりかっこいいライバル役に俺はあこがれるんだよね」
「お前の趣味はどうでもいいわ」
軽口を応酬しあい、二人はお互いの心を整える。
弱肉強食の街で育った二人にとって、それが生きる方法のひとつだった。
迷いと未練と混乱は、死と仲良しであることを彼らは知っていたのだから。




