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獣のテュラノス  作者: sajiro
ザルドゥ首都/狼王編
45/147

傀儡の鼠の王

 耳を疑った。

 新野の足元で上体を起こしている女をさして、二人は母と呼んだ。

 こうしている間にも、ナスシュの真隣にいるせいだろう、またもや思考が酩酊してくる。

 感覚が人間から化け物へとシフトしていく。

 指先が恐怖に震えた。

 しかしもう、この女に手を出すことができない。

 ブラウの銃口はまだ新野の胸に向いている。

 青鬼も赤鬼も混乱しきっている。新野が動けば反射的に弾丸が射出されるかもしれない。

 それよりもなによりも、

(二人の母親を、俺が殺すのか?)

 くらくらする頭でその言葉だけが何度も何度も繰り返された。

 一瞬前まで維持されていた殺意は砕けて散った。

 愕然として動けない新野の横で、ナスシュは二人の鬼をまじまじと見つめていた。

「ほら、やはり来た」

 その歓喜に打ち震える声に思わず彼女の顔を見上げた。

 女は喜色満面の笑みを浮かべ、それを共有したいばかりに新野を見やった。

「これは私の息子たちだ、大きくなった、立派になった!」

 女は言って新野の肩を叩く。

 理性ある会話を促された影響なのか、また新野の頭がクリアになっていく。

 テュラノスの性が、ナスになることへと抵抗してくれているが、このナスシュと会話をするとその抵抗力が強くなるようだった。

 その時の感覚はある時と似ている。

 狼王がその拳にテュラノスのしるしらしきものを発現した時と同じものだ。

 共鳴。

「あ、あんたいったいなんなんだ?!」

「だからこの二人の、親だ」

「それは……そんな……あんたがナスシュなんだろう?」

「そうだ」

「いや、だから……くそっ」

 頭を抱える新野の肩に女の手がのる。

 まるで慰めるようなその手を、信じられないものを見る目で凝視する。

 この女はブラウとロットの親であることを自ら認め、ナスの感染源であるナスシュであることも認めた。

 そしてテュラノスの共鳴を放つ。

 わけがわからない苛立ちに新野は奥歯を噛みしめた。拳が床を殴る。

 すると青鬼の銃口がしっかりと新野をとらえた。

「刺激するな、君は二人の友なのだろう?」

「トモ……」

 肯定できない。肯定すれば、完全にこのナスシュを殺すことができなくなるとわかっていた。それは自分がナスからもう戻れないことと同義だ。

「どうしたらいいんだよ!」

 苛立ちのまま叫ぶ。

 だが理性が戻るにつれ、心の中に冷静な部分を取り戻していく新野は、同時に安堵の念も感じていた。

(良かった。殺さなくて)

 このナスシュの襟を掴んだとき、ブラウの弾丸が割って入らなければ、確実に殺していただろう。

 今まで殺してきたナスと同じように頭蓋を破壊して。

 そして自分のナス化がもしかしたら改善されて、ナスシュの死など忘れて喜んでいたに違いない。

(二人のお母さんを殺さなくて、良かった……!)

 目の奥で涙があふれそうな、熱を感じた。

 もし流したなら無数の複眼から流れるのだろうか。想像すると大いに笑えない、必死で我慢する。

 肩を抱いて、その化け物と化している爪が肌を食い破っていることにも気が付かず、龍王のテュラノスは小さく震えていた。


 二体のナスを前にしてブラウとロットも混乱の極みに落ちていた。

 二体とも何度か唸ったあと、新野のほうに動きが見られた。床を殴り、声を荒げた。

 襲ってくるかと身構えたが、まるでなにかを耐えるかのように自傷行為を始め、今では傷だらけの肩を抱いてうずくまっている。

 そしてもう一体のほうはその新野を慮るように寄り添っている。

 ブラウとロットを襲う気は全く見られない。

「なんなんだよ……」

 苦渋に顔を歪め、ブラウはそれでも銃口を向けていた。

 しかし隣でロットは急に笑い声を上げた。

「意味わかんねえ!」

 可笑しそうに笑いながら、ロットは嬉しくて相好を崩す。

「母さんがナスになって生きてたってことなのか? 二年前からずっと?」

「俺が……知るかよ」

 兄弟のように笑うことがとてもできないブラウはしかし、どこかでほっとしていた。

 龍王のテュラノスである新野がナスになっても襲ってこない、少しは理性を残しているところを見ると、同じくナスになった彼らの母親もそうだということ。

 もう一度、死んだと思っていた母と生きることができるかもしれない。



 しかしそんなブラウの淡い期待を知ってか知らずか、女は言った。

「さあこれで、もう思い残すことなどない」

 その言葉を吐いた女を訝しみ、新野はゆるゆると顔を上げた。

「何……?」

 女は愛しむ目で二人の鬼を見つめている。彼女には二人はどう見えているのだろう。

「私はこれから自害する」

「は……?」

「ナスシュが死ねば、感染は治まる。超回復があるテュラノスならきっと元のヒトの姿に戻るだろう、常人ではナスになった時点で死と同じだが、君はまだ病気にかかっているようなものだからな」

「ど、どうして俺がテュラノスだってわかる」

「駅で私と出会ったとき、君は自分がナスになったことに気が付いていなかった。そんなナスはテュラノスくらいなものだ。それに君も感じているだろう、テュラノスは共鳴する」

 言っていることがするりと頭に入ってこない、呆然としたままの新野に女は淀みなく続ける。

「ナスシュである私の感染力は非常に強い。空気感染さえするほどだ。そこの哀れな鼠――」

 通路をふさぎ、仁王立ちで死亡している黒化しかけた鼠を、女は目を細めて見つめた。

「離れろと言っても聞かずに、私を案じて傍にいてくれた。王の眷属といえど、黒化に抗うことができなかった。こんな私がいる限り、この街に平穏は訪れない。いつかは息子たちにも影響を及ぼしてしまう」

「ま、待ってくれ。あんた本当に、何物なんだ」

「……私は、鼠の王さま、だった馬鹿な鼠だよ。この身体は愛する我がテュラノス。二年前天魔よりナスの根を植え付けられてしまった、傀儡の影だ」

「鼠の王……? 身体はテュラノスって……?」

 次々に発せられた言葉を飲み込もうとする新野に女は微笑み、すくっと立ち上がった。

「安心するといい、すぐに死んでみせるから」

 衝撃的な言葉をなんのためらいもなく吐いて、女は通路奥に向かってきびすを返した。

 新野も、ブラウもロットも予想だにしていなかった。止めようとすることもできない。



 そのナスシュである女が、振り向いた先で鼻をぶつけた。


「……!!」

 全員が息を飲んだ。

 ナスシュの眼前に新たな人物が立っていた。

 白色のパンツスーツに身を包む、音も気配も予兆もなく現れた人物。

 輝かしい金髪をひとつに結った、美しい女だった。

 穏やかな緑眼が金の震える睫毛の下で瞬いている。

「どこに行くというのですか、ナスシュ」

 金髪の美女は胸にぶつかったナスシュの肩をとる。

「……!」

 身をすくめる女の顎を、細い指がつい、とつたう。

 顔を上げさせられたナスシュに向かって、金髪の女は陶然と蠱惑的に微笑んだ。

「龍王のテュラノスを目の前にして、なにを迷うことがあるのですか? あなたが向かうのはこちらではなく、あちらでしょう」

 肩をひっくり返され、ナスシュは強制的に新野に対峙させられる。

 ナスシュは抵抗なく、眼を見開いたままおののいていた。

 龍王のテュラノスの感覚すら凌駕して、その美女は出現した。一瞬前は確かにいなかったはずなのに。

 その異常さに新野の心中で警鐘が響く。

(やばい、やばい! この女は、だめだ! 絶対に、敵だ!)

 本能が逃げろと訴えてくる。身体は戦えとせっついてくる。

 迷った結果動けない新野の姿に、金髪の美女は哀れむような視線を投げた。

「さあナスシュ、あなたの使命を遂げなさい。さもなくば、我らが王が裁きの鉄槌をこの街にくだしますよ」

 街、という単語にナスシュはびくっと肩を跳ねさせた。

 ナスシュの怯える瞳が新野を映す。

 事情はわからないが、金髪の女に従ってナスシュは自分を殺そうとしているのだろうか、新野もナスシュを見つめ返す。

「き、君を見つけた時」

 ナスシュは女の手から離れ、一歩新野に近寄った。幽鬼のように力なく歩いてくる。

「すぐにテュラノスだとわかって、それで、彼の――狼王の指示で来たのだろうと合点がいった」

 真っ白なワンピースは汚れ、青い髪はところどことほつれている。可憐な顔立ちは今は蒼白になっていた。

「狼王を知ってるのか?」

「もちろんだ。彼と私は無二の友。私はナスシュへと堕ちる際、彼にこの街を託した。私の愛しいこの街を守ってくれと、約束すらした」

「あ……」

 どこかで聞いた、狼王がザルドゥ首都を守る理由。狼王と鼠の王との約束。

「彼の中ではまだこの街のナワバリヌシは私、鼠の王なのだろう。鼠の王を殺すことは約束をたがえること、しかし死を感染するナスシュを放っておくのもまた同じだ。だから私を殺せる者を送り込んだ、君だ」

「そんなこと……ただの憶測だ」

「息子たちは彼の思惑の外だろうが、最期によい夢を見た気分だ」

 女は膝をつく新野の前に立ち、両手を開いた。

「さあやってくれ、龍王のテュラノスくん」

「やってくれ……って」

「言っただろう、私は傀儡だと。このままだと天魔の命に従い君を殺さなければいけない、君はそれでいいのか」

 金髪の女は新野とナスシュの会話に気が付いているのかいないのか、ナスシュがかぶり姿は見えないが、動きはない。

 新野は、なんの未練も恐怖も憤りも感じさせない、眼前の女をまじまじと見た。

「あんたはいいのかそれで」

「それが最良だ。後ろの二人を申し訳ないが頼むよ、私はもう二年前から彼らを守れなくなっている。その時点で親を名乗ることもできないむなしい存在なのだ。ただ天魔に気をつけろ、ナスシュが死ねば新しいナスシュを生み出そうとするはずだ、龍王のテュラノスなんて最高の素体だし、君は黒化もしている、申し分ないだろう。すぐに逃げ王に助力を求めろ」

 話す途中からナスシュの表情が徐々に苦悶としたものになっていく。

 背後の金髪の女から、不可視のプレッシャーが重く彼女を苦しめていた。

 事態の異常さが伝わっているだろうブラウとロットの視線を強く感じる。

 ナスシュは熱望するように新野を見つめ続けている。

 正面からのと背後からのと、それぞれの意図を持った目に射抜かれながら、新野はひたすらに迷っていた。

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