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獣のテュラノス  作者: sajiro
ザルドゥ首都/狼王編
44/147

深海のような貴方

 遠くから呼ぶ声がしていた。


 おかーあさー……ん


 その懐かしくも愛おしい声にいつも私は目を覚ます。

 そうして、二人の子を胸に抱いて、誇らしい気持ちで満たされる。

 今日はなにをして遊ぼうか。

 お天気はいいかしら。

 畑の野菜たちの調子はどうでしょう。

 なにもかもが輝かしい。

「ねえお父さんに会いに行こうよ!」

 あらいいわね、きっとあの人も会いたがっている。

「ナッツでも持っていこうぜ!」

 じゃあまずお買い物に行こうか。

 小さな手を左右に握って、横に並んで歩いていく。

 そんな奇跡のような日々。


 遠く、遠く――ここからずっと離れた場所――安らかに眠れそうなところから、そんな声がしていた。


「さあ、そんな、約束の時へいこう」

 女はそうつぶやいて、影の中で身じろいだ何かをひきつれ部屋を出た。



 最初に気が付いたのは、腐っても龍王のテュラノスである影、新野だった。

 フルマスクに覆われているように自分の呼吸音が聞こえるが、それが止まる。

 息をひそめ、新野は全感覚をその何者かに向けた。

 新野が唐突に足をとめたことで、テープがぴんと張る。ブラウがそれで振り返った。薄暗い通路に直立する新野がぼうっと見える。

「おい、どうした」

 ついいつものように声をかけるが、今となっては意志の疎通も難しい相手は反応をしない。

 ただフードの中で頭がゆらゆらと揺れている。

(周囲を、探っている――?)

 不審さを感じてブラウは先行するロットの背に声をかけた。

「おいちょっと待て!」

「んう? どうした?」

 のんびりと戻ってくるロットの足元で、デイボウがびたりと動きを止めた。

 短く警戒の声を発する。

 反射的に勇気の団員はほうほうに散り、通路の隙間に身を隠した。

 デイボウはロットの肩に登る。

 唐突に空気が重くなった。湿気を多分に含んだような鬱陶しい大気が体を滑っていく。

 ロットもブラウも聴覚が緊張をする。一本道の電灯もない通路。むき出しの配管が天井を這っている。

 ここは地下道、おそらくは工事の作業員が一時的に通り道として開通した穴だろう。

 どこかで雫の落ちた小さな音が、耳の中に響き渡る。

「どうやらあっちからわざわざ出てきてくれたようだ……」

 にやりと好戦的な笑みを浮かべ、ブラウが空気の重たさを押しのけるように言った。

 敵の強大な気配に身体が緊張し、心が固まっては動くべき時に動けなくなる。

 正常な呼吸を取り戻し、体内に新しい空気を入れ込むためにも会話が必要だ。

 そんなブラウの心境とは裏腹に、ロットは背中から大剣を抜き放つ。

 表情は至極残念そうだった。

「なんだよ、奇襲をかけて勇気の団アタックを仕掛ける作戦がぱーだぜ、ぱー!」

 本気で悔しがりぎりぎりと歯ぎしりをする様にデイボウがあんぐりと口を開けていた。

 通路の奥に、重いなにかが落ちる衝撃が起きた。

 衝撃は床を伝わって、全員の足を震えさせる。

「…………」

 数秒の静けさの後――、

「来た!」

断続的な地響きが両足を襲う! 

 鈍重ななにかが、こちらに駆けてきている!

 ここに逃げ道は無い。もしかすると相手は自分たちがこの通路に足を踏み入れることを待っていたのかもしれない。

 鼓膜を蹂躙する足音とその木霊からして、敵は巨大。しかし速い。

 広い地上のホームへ戻るために通路を逆戻りに走るのも手だ。しかし考えはよぎるものの、それをやりたいという意志は無かった。

 嬉々とした笑みをさらすロットの横で、ブラウも片手剣を抜いた。

 親の仇を目の前にして、どうして背中を向けられようか。

「来いよ――!」

「待ってたぜえ! ぶっ殺す!」

 狂気的な笑みを浮かべた二人の獣人の前にその巨大な影が猛然と現れた。

 通路いっぱいの巨躯を誇る獣は、速度を緩めることなく突進してきた。

 前方から壁が急速に迫ってくるようなものだ、しかしロットはひるむことなく大剣を前にして踏み出した。

 盾となった鋼の刃とその獣が激突する。交錯は一瞬、拮抗した力に跳ね返されたと同時に、後ろからブラウが飛び出す。

 容赦なく振り上げられた剣は厚い皮を袈裟懸けに斬った。

 甲高い錆びた鉄を思わせる悲鳴が響く。

 デイボウがその痛々しい叫びに目をつぶった。

「!?」

 影の正体があらわになる。

 通路をふさぐ毛むくじゃらの獣。眼光が頭上で二つぎらぎらと光っている。

 灰色の肥え太った鼠。

 ところどころが黒化している。

 ブラウは大きく舌打ちをした。

「鼠のナスとは、嫌がらせか!」

「悪いなあんた、邪魔なんで、ほんとごめんよ!」

 無邪気に謝りながら、ロットは壁を蹴って跳ぶ。

 複眼が顔面に生まれだした大鼠の眉間に、大剣が突き刺さった。

 深々と刺さったまま、ロットの両足が鼠の双眸を蹴りつける。

 反動で剣を抜き、宙で回転して着地。

 両の眼とその間から血の滝を流しながら、鼠はよろよろと二足で後じさる。

 ブラウたちからは見えないが、その鼠の背中を支える手が現れていた。


 ぞっとする、鋭利な感覚が背筋を襲い、気づけば新野は駆けていた。

 ブラウとつながるテープをひきちぎり、彼らの横をすり抜けて、漆黒のコートをたなびかせ疾走する。

 最早意識もないただの壁と化した大鼠と壁の隙間から、無理矢理鼠の向こうへ入り込んでいった。


 突然のその疾走をブラウは止めることができなかった。

 新野であるナスが鼠を押しのけ通路の先へ潜りこんでいった。

「な……!」

 驚愕した矢先に、鼠の向こう側から叫びが聞こえる。

 言葉にもなっていない、怪物の咆哮が。


 

 視界が一変し、新野は世界に色が戻ってきたことを知る。言葉を思い出し、思考をつくることができる自分を取り戻す。

 目の前に立つ青髪の女を睨みつけた。

「お前がナスシュか!」

 新野の怒号を女は受け止め、微笑む。

 間髪入れず女の両肩につかみかかり、勢い余って床に押し倒した。

 背中を打ち付けた女の痛そうな顔は、本当にただの人間の可憐なそれだが、それが実は偽物だとわかっている。

 新野には今自分の肌は黒く見えない。女の肌も白い。

 しかしそれはお互いがナスだからだ。

 ナスである自分にはナスの世界が見えている、これが通常であると錯覚している。

 だが新野は覚えていた。ロットとブラウが鬼に見えて、自分が異形となり人間性を失っていったことを。

 それを覚えていることが、テュラノスであるからなのかははっきりとわからない。

(だけどそれは最期のチャンスなんだ。こいつを、このナスシュを倒さないと俺は、本当の化け物になっちまう――!)

 ナスとなって人間的思考が欠如した間でも、決してブラウたちに見られまいとした自分の顔。

 鏡を見たら発狂してしまうのではないか。

 無数に動かせる、眼の数。どこまでも開く、口端。

 化け物になるおぞましい感覚。

「うああああ!」

 恐怖に後押しされるように、新野は女の襟をつかみあげ背中を浮かせた。そのまま床へ女の細い肢体を打ち付けようと、殺意をもって破壊しようとした。

 しかしその腕を鋭い熱が襲う。

 ギャッと怪物のような悲鳴をあげて女をとりこぼす。

 左の二の腕が大きく裂けていた。どろりと鮮血がこぼれる。

 遅くなって痛みが訪れる。平常ならば痛みによって沈静される興奮は、しかしさらに頭に血を登らせた。

 痛みを与えてきた者を睨みつける。

 そこには新野に銃口を向ける青鬼がいた。



 鼠の死骸をおしのけ見た光景に、ブラウは愕然とした。

 動けなかったブラウをおしのけ、ロットが叫ぶ。

「やめろ! ニイノ!」

 黒いコートの怪物は、もう一体のナスを倒し馬乗りになり目茶目茶な声を上げている。

 これがデイボウの言っていた、ナスどおしの会話なのだろうか。

 新野であるナスは叫びながらもう一体をつかみあげ、床にたたきつけようとした。

「よせ!」

 ロットの制止など届いていない。

 ブラウは太ももに差してている拳銃を抜いた。

 銃声が大きく響く。

 きんと耳を凍らせた弾丸が、新野の腕を裂いた。

 手を離した新野がぐるりとこちらを向く。しかしすぐにうつむいてやはりフードの中は見えない。

「動くな、ニイノ」

 ブラウの緊張した声がどうにか届いたのか、新野は荒い息をあげたまま動きを止めた。

 それでもいつでも足元に倒れているもう一体を襲いそうだ。

「な、なにしてるんですかい兄貴も旦那も! あれが、あのナスこそが、ナスシュなんですぜ?! ナスでありながらナスシュを襲うなんて、ナス友さんを止める理由がわかりやせんよ!」

 ロットの肩の上でデイボウは目を白黒させる。

「黙ってろデイボウ。そんなことはわかってんだよ」

 そんな小さな仲間にロットはぴしゃりと冷たい声。

 油断なく新野に銃口を向けたまま、ブラウは奥歯を噛みしめた。

「おいこれって、なんの冗談だ?」

「俺に聞くなよ、考えるのはお前の分野だろ」

 いつもならそう返して肩でもすくめて笑うロットだが、今はそんな余裕はなく、二人は同じ顔を苦渋に歪ませた。

 新野の足元で仰向けに倒れているナスは、デイボウの証言通りだった。顔中を覆い尽くす複眼に、ほんの少し開いているだけでもわかる巨大な赤い口。

 そんな歪で異形な様相が、小柄な女性の顔に張り付いている。

 真っ黒な体に着た白いワンピースが異常さをより引き出していて、それこそが獣人の二人組を混乱に陥れた原因だった。

「あの服、見覚えがあるんだよ。なんでだろうな……」

「奇遇だな、俺も覚えがある。それとあの、深い青色……」

 床に散ったのはナスにしては珍しい、長い髪だった。その一部が、生前のものなのか、青い。

 銃口がかたかたと、小刻みに震えていた。

 その震えの理由がわからなかった。恐怖か、困惑か、それとも歓喜、か。

「母、さん……?」

 仇であったはずのナスシュを目の前にして、二人は泣きそうな声でそう化け物を呼んだ。

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