昏い昏い
「…………!!」
あまりに驚くと声も出ないらしい。
髪の長い真っ暗な影を、顔を振り上げて確認すると。
拍子抜けをした。
視界に入った時にはナスだと思ったのだが、暗闇に惑わされていたのか、その女はどう見ても常人だった。
青い髪の穏やかそうな顔立ちをした女が、少し驚いた表情で立っていた。
新野に向けてだったのか、片手が宙で止まっている。
真っ白なワンピースを着ている女は戸惑い新野を怪訝と見つめる。
その不安そうな青い瞳に思わず新野から声をかけた。
「あ、あの……すみません」
なにに謝っているんだ? と自分につっこみつつ彼女の表情をうかがう。
いや、と女性はゆるりと首を振った。
「こちらこそすまないね。驚かせてしまったようだ」
顔立ちにあった涼やかで凛とした声だが、妙に口調がそぐわない。龍王のようだ、と思い出したりした。
「驚かせるつもりはなかった。……というより私の声が聞こえるとは思っていなくてね」
「はい?」
「いやいいんだ」
女はかぶりをふって、歩き始める。
彼女は問題の車両の扉を開けようとしていた。
全てが謎だったが、扉が重たそうだったので新野は反対側から手伝う。するりと軽く開いた。
「ありがとう」
礼を言ってそのまま車両に上半身を乗り上げて、中へと消えてしまった。
混乱しつつもついていくか迷っているうちに、女がすぐ戻ってきた。
その頃には明滅していた電灯は完全に消失していた。
「さあ君、こちらへ」
薄闇の中女の声がかかる。
白い服がぼうっと空間に浮くように見えていた。
新野がついてくるのを確認もせず、女は進み始める。
意図はわからないが、行くあてのない新野は深く考えることもなくそれについていく
女の歩幅は小さく、ゆっくり歩かないとすぐにぶつかってしまいそうだった。
「失礼ですが、あなたはいったい……」
「それはこちらも聞きたいところだ。が、いつナスが出るとも限らないこの場所で、悠長におしゃべりをするほど私は呑気ではないつもりだ、かいつまんでいこう」
「ナスが出る……」
「少し前までここはナスの巣窟だったのだよ」
女についていく過程で、階段を上がる。この先は山手線のホームだ。
「それがついさきほど、突然みんないなくなってしまった。どういうわけかわからないが、これ幸いとねぐらの点検をしていたところで君を見つけたというわけだ」
「そうですか……」
「さてそれでは君は」
「ああ、ええと……」
正直に話すべきか、ためらう。すると女の歩調がわずかに速くなった。
会話が届かない距離があき、急いであとを追う。
女は角を曲がった先の扉に入りこみ、新野もすべりこんだ。
そこはおそらく駅員等が利用する室内だった。デスクが立ち並んでいるが、嵐が過ぎたあとのように片側に押し込まれている。書類やファイルが乱雑に散らばり、椅子は転倒している。
光景にぴんときた。これはこの渋谷駅が、異界に堕ちた時の衝撃によるものなのだろう。
煩雑とした中で、開いたスペースに女は立ち止まる。
「ご到着だ、どうぞ座って」
「こ、ここが?」
「私のねぐらだ」
手近の椅子からクッションをはぎとり、女は床に投げた。どうやらそこが新野に用意された席らしい。
女は給湯室に消えていく。所在なげにクッションに正座をして、新野がきょろきょろとする頃にはマグカップを持って戻ってきた。
「はいどうぞ」
「あ、どうも」
受け取ったマグカップの中身はホットココアだろうか、なにしろここも同様に暗いので、視覚はあまり役に立ちそうもない。
というより、給湯室から持ってきたがこのココア?の賞味期限が非常に気になって、新野は口をつけず温かみを両手で感じるにとどめた。
女は新野の前で椅子に座る。じゃあなんで自分は床なんだ、とまた心中でつっこみ声に出す勇気はなかった。
「俺は、ナスシュを探してます」
飲み物に夢中な女は、すぐに話しそうな雰囲気ではなかったので新野から切り出すことにした。
ナスシュという単語に反応をした相手は、暗闇の中でもうっすら光って見える青色をこちらに向けた。
「…………」
それでも何故か黙っている彼女に耐え切れず、新野は続けて問う。
「さっきの車両になにかいるかと思ったんですけど」
「いなかったよ、なにもね」
「……じゃ、じゃああなたはいったいなにをしたんですか」
「電気を消したんだ。明るいとナスが集まる」
「そうなんですか?」
「奴らは光りにあこがれているのさ。元は生き物だったのだから。その頃に戻りたいと、失った自分の未来を取り戻したいと啼いている、と私には見える」
黙っていたかと思えば流暢に話す彼女に不審さを感じながらも、新野は更に問う。
「あなたはどうしてこんなところにいるんですか」
「怪しいかね?」
「え……」
怪しんで質問したのは明白だが、そう正面から率直に問われると答えにつまった。
「怪しいだろう、私も君も」
「俺も?」
「ナスシュを探すなんて、普通の人間がやることではない、当然だ。君は何者だね」
言って、居丈高に女はマグカップを唇にあてた。紅唇が優雅に湾曲する。
「俺は……」
龍王のテュラノスだ、と言おうとした新野の頭に警鐘が唐突になった。
やはり変だ、なにかおかしい。
おかしな女に、おかしな会話、おかしなシチュエーション。
唐突に目まいがした。
視界が歪む。すると目の前の女の姿が歪んでいく。
女はゆらゆらと曲がりくねり、水面に溶けた景色のように形を崩していく。それが、漆黒に一瞬見えた。
息を飲んだ新野は無意識に下がっていたようで、背中をデスクに打ち付けた。
「おやおやいったいどうした、自分が何者か思い出して正気にでも戻ったか?」
視界の中の影は嗤う。赤い大きな口が半月の線を描く。
この真紅で巨大な口は、何度も目に焼き付けたナスの凶暴な口――!
「あ、あんた、人間じゃないのか?!」
狼狽し、目まいに襲われながら新野は叫ぶ。拍子に持っていたマグカップを床に落とした、中身がぶちまけられそれはキイキイと鳴いて逃げ去った。
マグカップの中身はココアでなく、ネズミになりかわっていた。
いや、それが間違っている。
ネズミがココアに見えていたのだ。
しかも今も、直前のことなのにどちらだったのか、頭の中があやふやになっていく。
ナスになってしまった女は声を出して笑っていた。
その甲高い笑い声が頭に響く、耳をふさぎたい衝動に両手が動いた時、
「ニイノ!」
聞きなれた声が自分を呼んだ。
「ブラウ……」
女の声がぴたりとやむ。
「おーい、いるのかー?」
「ロット!」
眼前のナスは風のようにその場を走り去っていった。
新野は二人の声に向かって、声を上げる。
「二人とも、こっちだ!」
「お、今なんか聞こえたな」
ロットの声が近くになっている。きっと部屋の外を二人は歩いているのだろう。新野は先刻までの混乱から抜け出せた安堵に胸をなでおろした。
そうしてもう一度、二人を呼ぼうとした。
「いや、あれはニイノじゃない」
しかしその緊張したブラウの低い声にとどまる。
向けられたことのない明確な敵意が、壁向こうから届く。
部屋の扉がゆっくりと開いていく。
すきまから見えたのはブラウのコートと、抜き身の刀身だった。
低く呻く、苦鳴が聞こえてブラウは慎重に扉を開けた。
煩雑とした部屋だった。机も椅子もしっちゃかめっちゃかになっていて、部屋の奥で黒い影がすっとそれに隠れるのが見えた。
背後でロットが大剣を下ろすのを肌で感じる。
ブラウも同様に殺気立つ。今の影はどう見てもナスだった。
影が見える位置まで移動する。
暗い室内だがそれだけに聴覚も嗅覚も敏感になっている。獣人の彼らは通常の人間とは違う聞こえ方が半分、同じ感覚が半分備わっていて、部屋の奥のそれが四つん這いであることがわかった。
机のすみに隠れるようにうずくまっているそれはヒト型だった。複眼や馬鹿でかい口腔に覆われた悪辣な顔面は見えない。フードを目深にかぶっているのだ。
ナスになる以前の格好だろう、そのフードがついた漆黒のコートに、
「…………まさか」
「いや、違うデショ……」
とても見覚えがあり愕然とした。




